第220話 :テロの牙と、インフラ屋の矜持
「……俺だ。最悪の事態になった」
深夜の京成電鉄本社、保守派閥のドンは、震える指でダイヤルを回し、受話器の向こうの『闇』へと語りかけていた。
「お前らへの送金リスト(裏帳簿)が、社長の手に渡った。どこから漏れたか分からないが、社長はこれを盾に俺の首輪を締め上げた。……すまんが、しばらく『ATM(上納金)』は止めざるを得ない。大人しくしていてくれ。……ああ、そうだ、ほとぼりが冷めるまでだ」
ドンは一方的に電話を切り、脂汗を拭った。
彼は自分の保身しか頭になかった。この一本の電話が、生存本能を脅かされた泥沼の住人たちを、どれほど凶暴な獣に変えるかなど、想像すらしていなかった。
***
「……ふざけるなッ!!」
千葉県内のとある廃工場。薄暗いアジトの中で、成田闘争の残党である過激派の幹部が、パイプ椅子を蹴り飛ばした。
「裏帳簿が社長の手に渡っただと!? それが警察や特捜部に回ってみろ、俺たちの組織は一網打尽、完全に破滅だぞ!!」
「資金源が絶たれるだけじゃない……。京成のジジイどもは、俺たちをトカゲの尻尾にして逃げる気だ」
血走った目をした男たちが、ギリギリと歯を鳴らす。
彼らにとって、これは単なるシノギの危機ではない。組織の存亡を賭けた絶対絶命の窮地だった。
「……誰が漏らしたかはどうでもいい。今一番ヤバいのは、その原本(爆弾)を握っている『京成の社長』だ」
「ああ。……社長の口を物理的に塞ぎ、帳簿の原本と、それを持ち込んだ『情報元』を吐かせるしかない」
失うものが何もない者たちの、最悪のテロ計画が静かに産声を上げた。
***
数日後。白昼の千葉市内。
視察を終えた京成電鉄の社長は、若き技術者である成田を伴い、黒塗りのハイヤーに乗り込もうとしていた。
「成田。幕張の地質データは、急ぎ再精査しておけ。……これからは、我々自身の手で泥を掻き分けることになる」
「はい、社長」
成田が手帳を閉じた、その瞬間だった。
キキィィィィッ!!! という甲高いブレーキ音とともに、前後から突如現れた二台のワンボックスカーが、ハイヤーの進路を完全に封鎖した。
「な、なんだ!?」
運転手が叫ぶより早く、バンのスライドドアが乱暴に開き、目出し帽を被った数人の男たちが鉄パイプを握りしめて飛び出してきた。
「社長ッ! 下がってください!」
成田は咄嗟に社長を背後に庇い、男たちの前に立ち塞がった。しかし、相手は成田の泥沼を生き抜いてきた本物の暴力のプロだ。
「邪魔だ若造ッ!」
鈍い衝撃。成田は腹部に強烈な蹴りを食らい、アスファルトに這いつくばった。肺から酸素が強制的に追い出され、声が出ない。
「……大人しくついて来てもらおうか、社長さんよ」
男の一人が、社長の首元に冷たい刃物を突きつけた。
周囲は白昼の市街地だというのに、あまりの凶行に通行人たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、誰も助けに入れない。
「しゃ、ちょう……ッ!」
成田が血の味のする唾を吐き捨て、這い上がろうとしたその時。
「——やめろ、成田」
刃物を突きつけられているにも関わらず。
京成のトップは、まるでこれから役員会議にでも向かうかのように、微塵の揺らぎもない、鋼鉄のような目で成田を見下ろしていた。
「無駄な血を流すな。……お前には、まだやらねばならない仕事があるはずだ」
「社長、しかし……!」
男たちに腕を掴まれ、バンへと引きずり込まれそうになる中。
社長は、インフラを背負う男としての『最後の命令』を、成田に向けて低く、力強く放った。
「成田。……俺の心臓が止まっても、電車は止めるな」
成田は息を呑んだ。
「それが、我々『公共交通機関』の使命だ」
バタンッ!! と無情な音を立ててバンの扉が閉まる。
急発進した二台の車は、呆然と立ち尽くす成田を残し、あっという間に市街地の喧騒の中へと消え去っていった。
***
「——証拠が薄すぎますな。それに、千葉の地場に巣食う、得体の知れない過激派絡みとなると……我々としても、迂闊には動けません」
数時間後。千葉県警の取調室で、成田は絶望のどん底に叩き落とされていた。
かつての成田闘争で血みどろの死闘を繰り広げた千葉県警は、極度のトラウマ(PTSD)を抱えており、「過激派」という言葉を聞いた途端、あからさまに及び腰になっていたのだ。
会社にも頼れない。
保守派は内ゲバで完全に機能不全に陥り、社長派閥の人間たちは「社長の最後の命令(電車は止めるな)」を守るため、ダイヤの維持と混乱の収拾に付きっきりで、身動きが取れない。
警察は動かず、会社は沈黙し、時間は無情にも過ぎていく。
誰も、社長を助けに行けない。
「……くそッ……くそぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
薄暗い廊下の壁を、成田は拳から血が滲むほど強く叩きつけた。
自分一人の力では、あの泥沼の底から社長を救い出すことなど絶対に不可能だ。
強大な暴力に対抗するには、それ以上の【狂気と暴力】にすがるしかない。
成田の脳裏に、一本の葉巻をくゆらせながら、悪魔のように微笑む男の顔が浮かんだ。
(……五代専務……ッ!)
それが、自らの技術者としての魂を売り渡す『悪魔の契約』になるとも知らず。
孤立無援の若き英雄は、品川の赤いヤクザへとすがりつく決意を固めていた。




