第217話 :泥濘(でいねい)の査問会と、驕れるドン
京成電鉄本社、特別会議室。
窓は重厚なブラインドで閉ざされ、室内に立ち込める空気は、まるでタールのようにねっとりと重く、息苦しかった。
「——答えろ、成田。貴様、自分が何をやったのか分かっているのか?」
長大なマホガニーの円卓。その上座で、獲物をいたぶる蛇のような、ねばついた声が響いた。
声の主は、保守派閥を牛耳る筆頭常務——京成の『ドン』である。
彼の背後には、腹心である三人の側近たちが、薄ら笑いを浮かべて腕を組んでいた。
円卓の反対側、ただ一人ポツンと座らされている若き技術者・成田は、血の気が引いた顔で俯き、沈黙を守っていた。
「我が社が血と汗を流して測量した『幕張の海図』。それを、あろうことか外部の人間……あの京急の赤いヤクザ(五代)に売り渡すとは。これは明白な背任行為であり、我が社への反逆だ!」
ドンが机をバンッと叩く。
しかし、その顔に怒りはない。あるのは、目障りな若造を合法的に排除できるという、下劣なまでの歓喜だった。
「だいたい貴様は、昔から現場、現場とうるさかった。会社という組織の『政治』を理解しようとしない。我々がどれほど苦労して、あの成田の『ヤミ組織』との関係をコントロールし、この会社の安全を守ってきたと思っている?」
ドンの言葉に、側近の三人が深く頷く。
「五代などという狂犬に尻尾を振って、我が社の資産をタダで売り渡すとは……万死に値するな」
(……タダじゃない)
成田は、膝の上でギュッと拳を握りしめた。
若造が会社の海図をタダで献上した? 違う。五代専務が提示した条件は、京成にとって喉から手が出るほど魅力的な、そして恐ろしい「悪魔の契約」だった。
『京成津田沼から幕張への新路線延伸』——将来的に莫大な運賃収入を生み出す黄金の鉄路を京成に敷かせる。
そして何より、幕張に巣食っている成田闘争絡みの総会屋や過激派といった、血の流れる面倒な泥仕事。その『火中の栗』を、京急が自らの手で、すべて拾い上げて焼き払ってくれるというのだ。
一番ヤバい連中の相手は全部京急の狂犬が引き受け、京成は綺麗になった幕張へ線路を繋ぐだけでいい。
そんな、会社の未来を決定づける超特大の譲歩を、成田は懐に隠し持っていた。
『——いいか成田。査問会では、絶対に俺からの譲歩を口にするな。ジジイどもが殴り疲れるまで、ただのサンドバッグになれ。一切反論するな』
数日前、横浜の社長室で葉巻を吹かしながら、悪魔のように微笑んだ五代の言葉が脳裏をよぎる。
(……五代専務。あなたの言う通りでした。この人たちは、会社の未来なんてどうでもいい。ただ、自分たちの保身と、成田のダニどもに流す『裏金のパイプ』を守りたいだけなんだ)
成田が唇を噛み締め、一切の反論をしないのをいいことに、ドンの驕りはついに絶頂に達した。
「……ふん。ようやく自分の愚かさに気づいたか。遅すぎるがな」
ドンは鼻で笑い、高級なシルクのネクタイをゆっくりと締め直した。
若造の心は完全に折れた。これで目障りな改革派の火種は完全に消え、幕張の利権も、成田の裏工作の主導権も、すべて我々保守派のものとなる。
「貴様には処分を言い渡す価値もない。クビだ。……今から社長室へ行き、直々に引導を渡す手はずを整えてこよう」
ドンは立ち上がり、側近たちを引き連れて、意気揚々と会議室のドアへ向かった。
ドアノブに手をかけた瞬間、ドンは振り返り、ゴミを見るような目で成田を見下ろした。
「若造。インフラってのはな、正義や技術で動くんじゃない。……泥に塗れた『政治』で動くんだよ。二度とこの会社に近づくな」
バタン、と重い扉が閉まる。
廊下を歩くドンの足取りは、羽が生えたように軽かった。
彼の頭の中は、これから社長室で『成田がヤミ組織と組んでスカイライナーを燃やそうとした』という嘘八百を並べ立て、社長に処分へのハンコを捺させるという、完璧なシナリオで満たされていた。
この時、驕り高ぶるドンは知る由もなかった。
自分が向かっている社長室に、五代という本物の悪魔が仕掛けた【決して逃れられない生殺しのギロチン(裏帳簿)】が、ねっとりと口を開けて待ち構えていることなど——。




