第216話 :幕張の毒、あるいはデベロッパーの罠
横浜・みなとみらい。
京急が莫大なカネと血を注ぎ込んで造り上げたこの「黄金の街」の夜景を、地上二百メートルの超高級ホテルの一室から見下ろしている男がいた。
京急電鉄・五代専務。
彼の背後の分厚いペルシャ絨毯の上には、三人の男たちが泥だらけの靴のまま、無様に額を擦り付けていた。
「……五代専務! どうか、どうかワシらをお救いくだせえッ!」
千葉の地元代議士と、幕張の大地主たち。彼らの顔は恐怖と絶望で土気色に染まっていた。
国鉄の亡霊(JR)が主導した幕張新都心計画の頓挫。そのツケはすべて地元に回され、彼らは今や天文学的な借金を抱え、特捜部の影に怯える日々を送っていた。
「JRのバカどもは『資金がショートした、あとは外資に任せる』と逃げやがった! ワシらの土地はもう、二束三文のゴミクズ以下です! このままでは破産どころか、首を吊るしか……!」
「……おい、お前ら」
五代は葉巻の煙をゆっくりと吐き出し、夜景から振り返った。
「手ぶらで俺(みなとみらいの成功者)に泣きついてきたのか? 借金まみれで、差し出す土地の価値すら暴落してるってのによ」
「ひっ……! ワ、ワシらにはもう何も……! どうか、どうかお慈悲を……!」
代議士が絨毯に顔を押し付け、情けなく泣き叫んだ。
五代は冷酷な目で彼らを見下ろしながら、懐から一葉の巨大な青焼きの図面を取り出し、絨毯の上に広げた。
「カネがないなら、俺が出してやるよ」
その一言に、馬鹿どもは弾かれたように顔を上げた。
「俺たち京急がデベロッパーとして、幕張の主要施設——巨大モールも、メッセも、球場も、全部自腹で建ててやる。お前らはただ、土地と『手数料』を寄越せばいい」
「ほ、本当ですか!? ワシらは手出しゼロで、あの幕張の利権を持てるんですか!?」
「ああ。お前らはただ座って、自分の土地から上がる上澄みを啜っていればいい。……その代わり、街の『中身』は俺がすべてデザインする」
五代の太い指が、図面上の『幕張〜新習志野』の区間をなぞる。
「幕張の地上に、無骨なトラックは一台も走らせねえ。搬入口すら作らない。……新習志野駅に巨大なバスターミナルと配送センターを集約させ、そこから幕張のメッセやモールの地下深くまで、かつて東京駅から中央郵便局までを繋いでいたような『地下専用の貨物軽便鉄道』を敷く」
それは、インフラ屋にしか描けない「魔法」だった。
客の目には、商品が無限に湧き出てくる『美しく巨大な消費の箱』にしか見えない仕組み。
「みなとみらいのような『歩かせる都市型』じゃねえ。幕張は徹底した『郊外型』だ」
五代は図面の中心をドンと叩いた。
「客は自家用車で乗り付けさせる。行き止まりの線路で溢れた客は、新習志野の巨大ターミナルからバスで強引にピストン輸送して捌き切る。
そして、車を持たない徒歩の客には一切歩かせねえ。駅から『富山』で走っているような、街と一体化した『路面電車』の網の目に強制的に乗せ、すべての施設へと運ぶ。……大衆の財布を、安全に、効率的に、最後の一円まで絞り取る『究極の動線』だ」
馬鹿どもは、息をするのも忘れてその図面に見入っていた。
借金に首を絞められていた彼らにとって、五代の提案は「手持ち金ゼロでオーナーになれる」という、抗いようのない甘い毒(救済)だった。
「……ありがとうございます、五代専務! ワシらは手出しゼロで、この黄金の要塞のオーナーになれるんですね! 一生、京急さんに付いていきますッ!」
狂喜乱舞し、すがりつこうとする代議士たち。
しかし、五代は冷酷な目で彼らを見下ろし、吸いかけの葉巻を灰皿に押し付けた。
「勘違いするなよ。俺は『タダで』街を造ってやると言ったわけじゃねえ」
「えっ……?」
「お前らにはカネも土地の価値もねえ。だが、胸にふんぞり返ってるその『議員バッジ(地方政治力)』だけは残ってるだろうが。……ハコモノのカネは俺が出す。街の図面も俺が引く。だがな、その代わり俺の『要求』を呑め」
五代の太い指が、図面上の『蘇我〜幕張〜新木場』の区間をなぞった。
「『蘇我から幕張を抜け、県境である新木場に至る新しい鉄道路線』。これを京急に引かせろ。そして……こいつを国(運輸省)に認めさせる一番の泥仕事は、お前ら地方議員がやれ」
五代の言葉に、代議士と地主たちの顔から一瞬で血の気が引いた。
「そ、そんな無茶な! 路線認可だなんて! 国鉄(JR)の天下である千葉で、しかもJRが失敗した直後のこのタイミングで、私鉄(京急)の新規路線を国に認めさせるなんて、運輸省の官僚どもが縦に首を振るわけが……!」
代議士が悲鳴のような声を上げた瞬間。
五代の纏う空気が、絶対零度の殺気へと変わった。
「なんだ? ……できないのか?」
「ひっ!」
「俺は数百億のカネを動かして、お前らの借金と街を救ってやろうとしている。お前らの仕事は、胸につけたその偉そうな『議員バッジ』を使って、役人にハンコを押させることだけだ。……それが『できない』って言うなら」
五代はゆっくりと図面を巻き取り始めた。
「この話は無かったことにする。俺はみなとみらいに帰る。……お前らは明日、特捜部に震えながら首を吊れ」
「ま、待ってください! 待ってくだせえ五代専務!!」
代議士は絨毯に顔を擦り付け、必死で五代のズボンの裾にしがみついた。
ここで「できません」と言えば、一秒後に破滅(死)が確定する。彼らに拒否権など最初から存在しなかった。莫大な資金を前にした彼らは、五代の言うことには「イエス」としか答えられない、完璧な奴隷(政治の駒)へと調教されていたのだ。
「や、やります! やらせてください! 運輸省だろうがJRの残党だろうが、ワシらが命懸けで土下座して、絶対に新路線の認可をひったくってきます!!」
狂喜から一転、恐怖と冷や汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら、馬鹿どもは先を争うように万年筆を握り、『路線認可の全責任を負う承諾書』に震える手でハンコを押し始めた。
五代にとって、幕張のデベロッパー業務など「あんまり儲からない下仕事」に過ぎない。
真の狙いは、この救済を通じて千葉の政財界に深く根を張り、彼らを【京急のための便利な政治の弾除け(特攻隊)】として使い潰すことだった。
(……せいぜい血反吐を吐いて、俺の赤い弾丸の道を作れ)
狂ったようにハンコを押す愚者たちを見下ろしながら、五代は懐に「もう一枚の図面(京成への譲渡プラン)」を忍ばせたまま、冷たく笑った。
こうして、ジョウカが数ヶ月かけて計算を終えるよりずっと前に、幕張のインフラと政治は、完全に赤い弾丸の胃袋の中に飲み込まれていたのだった。




