表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

213/246

第213話 :湾岸編(1) 儀式――相鉄の箱庭と、五代専務の赤い宣言

本日最後です。

夜の横浜・みなとみらい。

相模湾から吹き込む潮風が、完成したばかりの巨大な超高層ビル群の間をすり抜けていく。その最も空に近い場所――相鉄本社ビルの最上階に設けられた特別室の巨大なガラス窓からは、まるで宝石箱をひっくり返したような、圧倒的な光の海が見下ろせた。

相模の覇王たる相鉄のドンは、最高級の革張りソファーに深く腰を沈め、クリスタルグラスの中で琥珀色のブランデーを静かに揺らしていた。氷が溶ける微かな音だけが、完全な防音を施された冷たい空間に響く。

彼の傍らには、西東京を巡る血みどろのインフラ戦争において、冷徹な知略ですべての敵を罠にハメた懐刀・高見が、彫像のように静かに控えていた。

「……見事な夜景だ。何度見ても飽きない」

相鉄のドンは、眼下の光の粒に目を細めながら独り言のように呟いた。

「この光の一つ一つが、我々相鉄のインフラの上に成り立っている。新宿という『かつての欲望の都』で、小田急や京王といった巨大資本が互いの血肉を喰らい合い、身の丈に合わないハコモノ行政で自重に耐えきれず崩壊していく中……我々は一滴の血も流さず、ただ『新調布』という関所を置くだけで、西東京の豊かな富(客)をすべてこの横浜へと吸い上げることに成功した」

ドンはグラスを掲げ、何もない空間に向かって静かに祝杯を挙げた。

「小田急は我々の莫大な融資によって首輪をつけられ、永遠に横浜へ客を運ぶための『ピカピカの忠犬』となった。新宿の大家を気取っていた京王は、自ら建てた巨大テーマパークの負債に押し潰され、最も美味しい『井の頭線』という王冠を毟り取られた。今やヤツらは、我々の関所(新調布)まで、多摩の山奥から安い通勤客をピストン輸送するためだけの『走るゾンビ』だ。……国鉄(笑)の時代遅れな路線や、湘南モノレール(笑)のような遊園地の乗り物など、もはや我々の視界の端にすら映らない」

完全なる勝利宣言。

相鉄は西関東のインフラ勢力図を完全に塗り替え、誰も手出しできない絶対的な【箱庭(帝国)】を完成させたのだ。

「……ご機嫌だな、相鉄さん。平和な箱庭の王様気取り、といったところか」

不意に、部屋の最も暗い隅から、氷のように冷たく、しかしカミソリのように鋭い声が響いた。

高見がピクリと反応し、相鉄のドンがゆっくりと視線を向ける。

そこに座っていたのは、仕立ての良さが一目でわかるダークスーツを身に纏った、一人の男だった。

京急電鉄・五代専務。

「社長」という表舞台の窮屈な椅子を嫌い、生涯「専務」という自由な肩書きのまま、海沿いの覇者・京急の裏の全権を握る男。ダイヤとスピードという「インフラの暴力」を誰よりも信奉する、冷徹なる絶対権力者である。

相鉄のドンは、五代の放つ異様なプレッシャーを正面から受け止めながら、ゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。高見もそれに倣う。

「……ようこそお越しくださいました、五代専務。西東京の泥仕合、我々相鉄の完全勝利に終わりました。これもすべて、かつて昭和の終わりに……あなたがた京急さんからご提供いただいた【140km/hの千万特許(標準軌の超高速技術)】があったからこそ。心より感謝申し上げます」

そう。相鉄が誇る、新調布から横浜を一直線に結ぶ「140km/hフル規格特急」。その圧倒的なスピードの源流は、相鉄が自力で開発したものではない。かつてインフラの限界をブチ破るために、海沿いの覇者・京急が巨額の対価と引き換えに譲り渡した、門外不出の【千万特許】の賜物であった。

相鉄にとって、五代専務は「技術的絶対優位」をもたらしてくれた恩人であり、同時に、決して逆らってはならない「インフラの怪物」そのものだった。

五代は、出された最高級の葉巻を指先でもてあそびながら、フッと鼻で笑った。

「……礼には及ばんよ、相鉄さん。特許の対価はキッチリ札束でもらった。それにしても、ウチの技術を使って見事な『集金システム』を作ったもんだな。新調布の関所で、休日にカネを落とす美味しいレジャー客だけを根こそぎ吸い取り、あとの安い通勤客は、ノロノロと這いつくばる京王……あの『走る屍』に運ばせる。……あんたらの140km/hは、自分たちの綺麗な線路(横浜)だけを優雅に走るってわけだ」

五代の言葉には、賞賛と同時に、微かな「軽蔑」が混じっていた。

相鉄のドンは、その棘に気づかないフリをして静かに頷いた。

「ええ。我々はこれより、自社沿線の不動産開発と、強固な路線網の維持にのみ注力します。相模の国さえ豊かであればそれでいい。もう他国の領土には一切手を出さない。小田急を完全に支配し、京王を土管として固定化した今……これにて、私、相鉄の物語は終わりです」

「……なるほど。綺麗にまとまったな」

五代はソファーから立ち上がり、みなとみらいの夜景を見下ろす巨大なガラス窓へと歩み寄った。

窓ガラスに反射する五代の目は、足元の光の海など一切見ていなかった。彼の視線は、横浜から遠く離れた、漆黒の東京湾……その海の底へと向けられていた。

「あんたら相鉄は、賢いインフラ屋だ。京王の『団子状態のクソ詰まりダイヤ』に通勤客を押し付けて、自分たちは安全圏から利益だけを啜り取る。……だがな」

五代の声の温度が、一気に絶対零度まで下がった。

空気が凍りつくような殺気が、特別室を支配する。

「ウチ(京急)は、海沿いの修羅場から降りる気はない」

「……と、おっしゃいますと?」

高見が、警戒の色を隠せずに問い返した。五代は振り返り、獲物を狙う鷹のような目で高見を射抜いた。

「あんたらは、自分たちの140km/hが、新調布から先の『他社の線路』でスピードを落とそうが、客が苦しもうが知ったことじゃないと言う。……だが、俺は違う。ウチの『赤い弾丸』は今、都心へ向かうために【都営浅草線】という他人の極細のストローの中で、他社のチンタラした電車に巻き込まれて団子状態になり、自慢のスピードを完全に殺されている」

五代の拳が、微かに、しかし激しい怒りを持って握りしめられた。

「俺は、俺の電車が『他人の土管インフラ』の中でノロノロと走らされる屈辱を、絶対に許さない。インフラ屋にとって、スピードを殺されることは『死』と同義だ。……浅草線の役人どもに頭を下げてダイヤを調整してもらうくらいなら、俺は俺のやり方で、物理的な限界をブチ破る」

相鉄のドンが、微かに息を呑んだ。

西の覇者となった相鉄が「インフラの物理的限界(他社のダイヤや路線容量)」に妥協し、守りに入ったのに対し。海沿いの覇者は、その限界を【自らの手で物理的に破壊する】ことを宣言したのだ。

それは、現状維持を望む相鉄とは根本的に異なる、果てなき闘争本能だった。

「それに……」

五代は、懐から銀色のジッポライターを取り出し、カチンと冷たい音を立てて火を点けた。

「国鉄の連中が【JR東日本】として民営化しやがった。これまで『親方日の丸』で胡座をかいていたボンクラどもが、莫大な民間資本と国家のインフラ網を武器に、牙を剥き始めたんだ。ヤツらは今、『東京臨海副都心線(りんかい線)』だの『京葉線』だのと、手付かずだった海沿い(東京湾岸)のシマを荒らし、新たな巨大商圏を独占しようと企んでいる。……このままじゃ、せっかくの140km/hも、巨大資本のハコモノ路線に埋もれて、浅草線の地下深くで窒息死しちまう」

五代は、相鉄のドンに向かって、悪魔のように獰猛な笑みを浮かべた。

「相鉄さん。あんたはせいぜい、完成した箱庭の中で平和に暮らしてな。……俺は、自らの手で東京湾の海底に、誰も見たことがない巨大なバイパスをブチ開けに行く」

「……海底に、バイパス……!?」

「ああ。民営化したばかりのJR東日本……あの巨大資本の顔面を、赤い弾丸の140km/hで往復ビンタしてくる。……湾岸の富は、国鉄の残党なんぞに一銭も渡さねえよ」

それだけを言い残し、五代専務は踵を返し、足音もなく夜の闇へと消えていった。

特別室に取り残された相鉄のドンと高見は、ただ無言で、五代が消えた扉を見つめることしかできなかった。

「……社長」

沈黙を破ったのは高見だった。彼の額には、冷たい汗が滲んでいた。

「五代専務は、本気でしょうか。……民営化したばかりのJR東日本と真っ向から喧嘩をするなど、国家権力に喧嘩を売るのと同じです。いくら京急の資本力でも、自力で海底を掘り抜いて新たな路線を造るなど……狂気の沙汰だ」

相鉄のドンは、グラスに残ったブランデーを一気に飲み干し、深くため息をついた。

「……あれが、本物の『インフラ屋』だ、高見」

「社長……?」

「我々は、西東京の泥仕合に勝った。だが、所詮は山の中で土管の奪い合いをしていたに過ぎない。……だが五代専務は違う。あの男は、地形そのものを変え、国家の血流ダイヤを根底から書き換える気だ。……私と彼とでは、最初から見ている景色スケールが違ったのだ」

相鉄のドンは、再び窓の外の夜景に目を向けた。

煌びやかなみなとみらいの光が、今はひどく小さく、ちっぽけな「おもちゃの箱庭」のように感じられた。

西東京(新宿)を巡る血みどろの泥仕合が終わりを告げたその夜。

かつて140km/hの千万特許を共有し、共にインフラの覇権を夢見た二つの私鉄は、完全に道を違えた。

現状に満足し、西の山で玉座に座ることを選んだ「相模の覇王」のエピローグと引き換えに。果てなきスピードと野望を求め、暗黒の海へと歩み出した「五代専務」による、【東京湾岸ハイジャック】という史上最悪のインフラ強奪戦の幕が、今、静かに、そして圧倒的な熱量を持って上がったのである。

時代は昭和から平成へ。

戦場は西の山から、東の海へ。

赤い弾丸が、東京湾の海底を蹂躙する夜明けが、すぐそこまで迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ