第212話 :西の関ヶ原(終) 井の頭線の割譲、あるいは見えない巨大な壁
東京都庁・新宿移転から数年後。
かつて日本一のカオスと欲望を誇った新宿西口は、警察によって徹底的に「殺菌」され、エリート官僚たちが足早に通り過ぎるだけの、無機質で退屈な【死の官庁街】と化していた。
そして、そのド真ん中に、異様な威容を誇る巨大なガラス張りのビルがそびえ立っていた。
【京王ルネッサンス・タワー】――京王電鉄が、失われた休日のレジャー客を新宿に呼び戻すため、莫大な社債を発行して西口の自社ホーム直上にブチ建てた「超巨大屋内型テーマパーク&高級リゾート施設」である。
「……本日のタワー入場者数、目標の5%をまた下回りました。テナントの撤退も相次ぎ、維持費と金利だけで、毎月数十億の赤字が垂れ流されています」
京王電鉄本社。役員室に響く報告は、まさに葬送曲だった。
京王のトップは、頭を抱えて震えていた。
多摩ニュータウンや橋本といった【郊外の住宅開発】は成功している。毎日、何十万人もの通勤客が京王線に乗って運賃を払ってくれている。しかし、その郊外で汗水流して稼いだ手堅い利益(小銭)のすべてが、新宿に建てた『巨大な無用の長物』の赤字補填に吸い込まれ、一瞬で蒸発していくのだ。
「……なぜだ。なぜ若者たちは新宿に来ない!! これだけのエンタメ施設を作ったというのに!!」
「……社長。周囲が警察だらけの息苦しい官庁街に、遊びに来る若者などいません。休日の客は皆、手前の新調布で相鉄に乗り換え、横浜へ流出しています。……我が社の財務は、もう限界です」
かつて炭鉱で栄えた夕張が、無理なリゾート開発で自重に耐えきれず崩壊したように。
新宿の大家を気取っていた京王は、都心でのピント外れな巨大投資によって、内部から完全に自滅(資金ショート)したのである。
***
数週間後。
倒産という最悪の結末を避けるため、京王は血の涙を流しながら「ある契約書」にサインをさせられていた。
「……ご苦労様でした、京王さん。これで、おたくの会社も明日の不渡りを免れましたね」
小田急電鉄・常務の御子柴は、冷徹な笑みを浮かべて契約書をファイルに収めた。
京王が延命の対価として差し出したのは、自社路線の中で唯一「新宿の呪縛」から逃れ、単体で莫大な黒字を叩き出していた絶対的ドル箱路線――【井の頭線(渋谷〜吉祥寺)】の全経営権だった。
相鉄の資金バックアップを受けた小田急が、京王の王冠を丸ごと毟り取ったのだ。
「貴社に残されたのは、本線と相模原線だけだ。……これからは郊外で拾った通勤客を、せいぜい安い運賃で『新調布(相鉄の関所)』まで運んで、細々と長生きしてください」
京王のトップは、屈辱に唇を噛み破りながら俯くことしかできなかった。
京王はここに【ただの通勤土管】へと完全に成り下がったのである。
***
「ガッハッハッ! 見ろ御子柴! ついに我々小田急も『渋谷』という巨大ターミナルに直接乗り込んだぞ!」
小田急本社の社長室では、ドンが勝利の美酒に酔いしれていた。
「すぐに渋谷駅の井の頭線ホーム周辺の土地を買い占めろ! 小田急資本で、渋谷を我々の新たな城(再開発拠点)にするんだ!!」
西東京の泥仕合を制した小田急は、完全に有頂天になっていた。
彼らは井の頭線沿線の【吉祥寺〜下北沢〜渋谷】に至るまでの全線再開発という、超強気なマスタープランをブチ上げた。
……しかし。その慢心が「虎の尾」を踏むことになる。
数ヶ月後。小田急の『渋谷・再開発計画』は、見えない壁に激突したように完全停止した。
渋谷側の地権者が突然、示し合わせたように全員「売却拒否」に回った。メインバンクからは「渋谷での開発融資は当面下ろせない」と通達され、東京都や渋谷区の建築認可のハンコは、理由もなく書類の山に埋もれた。
「……どういうことだ!? なぜ渋谷だけ、すべてのハンコが下りない!? 誰が裏で手を回している!?」
焦燥する御子柴のデスクの電話が鳴った。
受話器を取ると、相鉄の懐刀・高見の、氷のように冷たい声が響いた。
『……引け、御子柴。それ以上踏み込めば、小田急という会社そのものが地図から消されるぞ』
「高見さん!? 一体何が起きている!?」
『……お前たちは、触れてはならない神域に手を出したんだ。渋谷は、【あの方たち】の絶対的な聖地だ』
高見の声には、普段の彼からは想像もつかないほどの「畏怖」が混じっていた。
『彼らは表舞台には一切出てこない。泥仕合などしない。……だが、都庁、銀行、ゼネコン、すべてのシステムが、意のままに動く。西東京の泥仕合の勝者が、調子に乗って渋谷にシマを持とうとしたから……【システム全体】を使って、無言の圧力(警告)を下されたんだ』
姿すら見せない。直接的な攻撃すらない。
ただ「世界そのものが小田急を拒絶する」という、次元の違う権力の暴力。
それが、東京のインフラを真に支配するラスボスの力だった。
圧倒的な恐怖と、格の違いを思い知らされた御子柴は、震える手で受話器を置き、渋谷での再開発計画書をシュレッダーにかけた。
結果として、小田急が井の頭線で手を出せたのは【吉祥寺〜下北沢(小田急本線との交差点)】まで。下北沢から先の渋谷方面は、見えない恐怖に怯えるように、古い駅舎のまま手付かずで残されることになった。
「……我々が血みどろになって争っていたのは、東京のほんの『端っこ(スラム)』に過ぎなかったのか……」
窓から見える西東京の街並みを見下ろし、御子柴は絶望的に呟いた。
西武は自爆し、京王は土管になり、小田急は勝者になった瞬間に絶対的な壁に平伏した。
西東京(新宿)を巡る血みどろのインフラ戦争は、勝者なき不気味な静寂の中で、完全に幕を閉じたのであった。
もう少しやりたかった田町




