第208話 :西の関ヶ原(8) ブルドーザーと警察、あるいは熱気の終焉
「……開けろ!! 警察だ!! 建築基準法および風営法違反の疑いでガサ入れだ!!」
新宿区・歌舞伎町。西武新宿駅にへばりつくように形成されていた、古く、猥雑で、しかし圧倒的な熱気を放っていた飲み屋街。
そこに、怒号とサイレンの音が鳴り響いた。
「なんだと!? 急に何だアンタら! みかじめ料なら、この前……」
「黙れ! この一帯は『新都心・新宿』に隣接する重要再開発エリアに指定された! 違法な増改築、用途外使用、すべて本日をもって営業停止だ。直ちに立ち退け!!」
東京都の腕章をつけた役人と、機動隊の盾。
それは「都庁移転」という絶対的な国家の大義名分と、西武鉄道のドンが裏でばら撒いた莫大な【浄化資金】によって動員された、暴力的なまでの『殺菌装置』だった。
昨日まで、安い焼き鳥の煙と、酔っ払いの笑い声と、ギラギラとしたネオンサインで満ち溢れていた路地裏から、次々と人々が引きずり出されていく。
長年、西武線に乗ってこの街へ「欲望を満たしに」来ていた泥臭い客たちは、突然の警察の弾圧に怯え、蜘蛛の子を散らすように歌舞伎町から逃げ出していった。
そして、客が消え、店主たちが追い出された【空っぽの街】に、地鳴りを立ててやってきたのは――西武資本のロゴが入った、巨大な重機の群れだった。
ガシャァァァァァンッ!!!!
重い鉄の爪が、戦後から継ぎ足されてきた雑居ビルを無残に引き裂く。
長年染み付いた酒と脂の匂いが、コンクリートの粉塵と共に宙に舞い、そして強制的にかき消されていく。
西武新宿駅のホーム端。
その徹底的な破壊と蹂躙の光景を、西武のドンはオーダーメイドの高級スーツに身を包み、満足げに見下ろしていた。
「……素晴らしい。あの薄汚いゴミ溜めが、見る見るうちに平地になっていくぞ」
ドンは葉巻の煙を吐き出しながら、隣に立つ営業本部長を振り返った。
「見ろ。これが『進化』だ。我々の駅の前に、あの小田急や京王にも負けない、広大でクリーンな【西武・新広場】が誕生する。これこそが、西口のエリートたちを迎え入れるための『一流の玄関口』に相応しい姿だ!!」
「……」
本部長は、何も答えられなかった。
彼の目には、ドンの言う「進化」など1ミリも映っていない。そこにあるのは、自社の電車に毎日乗ってくれていた【上客たちの居場所】が、自社のカネと重機によって物理的に叩き潰されているという、あまりにも無様で絶望的な光景だけだった。
(……社長、あなたは分かっていない。ウチの電車は、あの『薄汚いゴミ溜め』があったからこそ、毎日満員だったんです。……エリート官僚が、わざわざ西武線に乗ってどこへ行くというんですか。ウチの沿線には、彼らが喜ぶような高級住宅街もオフィス街も、何一つないじゃないですか……!!)
本部長の悲痛な心の叫びは、重機の轟音に完全に掻き消されていた。
数ヶ月に及ぶ、容赦のない破壊と殺菌。
やがて、西武新宿駅の前から「すべての匂い」が消え去った。
そこに完成したのは、ドンが望んだ通りの【世界一綺麗で、健全な街】。
真っ白なタイルが敷き詰められ、ゴミ一つ落ちていない無機質な広場。いかがわしいネオンの代わりに、冷たい水銀灯が白々しく広場を照らしている。
……しかし。
完成したその巨大な「西武・新広場」には、誰一人として歩いていなかった。
酒を飲む場所も、遊ぶ場所も、熱気も失われたただの「白い空き地」に、客が寄り付く理由など、どこにもなかったのだ。
ただ、冷たいビル風だけが、誰もいない無菌室の広場を空しく吹き抜けていった。




