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第205話 西の関ヶ原(5) 氷の旗本と柴犬、あるいは毒鍋の共宴

横浜・二俣川。相鉄本社ビル、最上階の特別応接室。

分厚い雲が月を隠す夜。マホガニーの重厚なデスクを挟み、相鉄の冷徹なる懐刀・高見は、一切の感情を排した氷のような瞳で、目の前の男を見据えていた。

小田急電鉄・常務取締役、御子柴。

彼の顔は、死人のように蒼白だった。デスクの上に広げられた数枚の都市計画図と、相鉄から提示された「天文学的な開発援助金(裏金)」の確約書が、彼の喉元に冷たい刃を突きつけている。

「……これが、相鉄ウチが小田急のインフラを救済する絶対条件です。御子柴常務」

高見の声には、嘲笑も熱もない。ただ、数式を読み上げるかのような静かな響きがあった。

「一つ。小田急は京王の体力を削るため、多摩・相模原線への投資泥仕合に全力を注ぐ。二つ。小田急線の要衝に、我々相鉄との結節点となる『新調布ターミナル』を建設する。……そして三つ目。これが最も重要です」

高見は、三枚目の図面――【東京都庁・新宿西口移転計画】の極秘資料を、白魚のような指でトン、と叩いた。

「この都庁移転構想を、お前のとこの社長……『新宿のドン』にプレゼンし、丸呑みさせなさい。ウチが用意したこの莫大な裏金で、西口の違法建築とスラムの掃除を小田急の全責任で引き受けさせるんです」

御子柴は、手元の図面を握りしめ、ギリッと奥歯を鳴らした。

優秀な実務家である彼には、高見の提示した図面が意味する「真の地獄」が一瞬で理解できていた。

「……高見さん。この図面……新宿西口から、我々の小田急百貨店も、商業施設も、繁華街もすべて消え去っている。あるのは巨大な都庁舎と、無機質な付帯施設、だだっ広い防災公園だけじゃないか」

御子柴の声が、低く震える。

「……こんなものを建てれば、警察が威信を懸けて新宿を『浄化(殺菌)』する。買い物をする場所も遊ぶ場所もない、ただの『綺麗で息苦しい官庁街』になる。……新宿が、商業都市として死ぬ図面じゃないか。我々にだけ、この猛毒を飲んで死ねと言うのか」

静寂が、応接室に重くのしかかる。

断れば、小田急は資金ショートを起こし、明日にも京王より先に倒産する。小田急という会社そのものの命脈を保つためには、自らの本丸である「新宿」を、自らの手で相鉄に売り渡すしかないのだ。

高見は沈黙を保ったまま、御子柴の返答を待っている。

諦観か、絶望か。……いや。

御子柴の瞳の奥に宿っていたのは、追いつめられた狂犬の、ギラギラとした【殺意(インフラ屋の意地)】だった。

「……高見さん。この条件、飲みましょう」

「ほう」

「ウチの社長ドンには、私が『都庁が来れば新宿は永遠の都になります』とプレゼンして、必ず首を縦に振らせる。西口の土地もすべて差し出しましょう。……だが」

御子柴は、図面の「新宿駅西口広場」を、バンッ! と拳で叩きつけた。

「ウチ(小田急)だけが西口の土地を差し出し、百貨店を解体して血を流せば、隣にいる【京王】と、西武新宿駅から西口への延伸を狙っている【西武】が漁夫の利を得る。それだけは、絶対に許容できない」

高見の眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められた。

「……続けなさい」

「都庁への巨大な地下連絡通路。駅前広場の再開発。そして防災公園の確保。……これを『小田急・京王・西武の3社合同プロジェクト』として、東京都に要求させるよう、相鉄あんたの圧倒的な政治力で根回ししていただきたい」

御子柴の顔に、凄惨な笑みが浮かぶ。

「アイツらも『都庁』という権力の甘い汁に目が眩んでいる。合同プロジェクトに誘えば、絶対に食いつく。……ウチだけじゃない。京王も、西武も、この毒鍋に一緒にブチ込みます」

対・京王には、「西口再開発は折半だ」と持ちかけ、莫大な費用を負担させると共に、景観保護を理由に京王百貨店の解体にも巻き込む。

対・西武には、「悲願の西口接続」をエサに再開発資金を吐き出させ、彼らのシマである歌舞伎町周辺の『浄化(クリーン化)』に金を出させる。

「全員で仲良く、新宿のドブさらい(地上げ)に全資金を突っ込み、全員で仲良く『綺麗な官庁街』というコンクリートの墓標の下で窒息死してやりますよ。……どうです?」

高見は、じっと御子柴の顔を見つめていた。

そこにあるのは、小悪党を嘲笑うような安っぽい感情ではない。自らの心臓を抉りながらも、敵の喉笛に喰らいつこうとする実務家に対する、確かな『敬意』だった。

「……なるほど。自分だけが沈むのではなく、ライバルの足に自ら鎖を巻きつけ、共に海底へ沈むか。……見事な覚悟だ」

高見は、懐から最高級の万年筆を取り出し、御子柴の目の前に滑らせた。

「いいでしょう。相鉄としても、京王と西武の資金が新宿にロックされるのは願ったり叶ったりだ。都議会と建設省への根回しは、私が責任を持って手配します」

「……頼みますよ、高見さん。これで我々は、共犯だ」

御子柴は万年筆を握り、確約書に乱暴にサインを書き殴った。

高見はそれを静かに受け取ると、夜の横浜が見下ろせる窓へと向き直った。

「ええ。美しき帝都浄化の始まりです。……さあ、小田急、京王、西武。三社仲良く、新宿という無機質なコンクリートの墓標を建てようじゃありませんか」

冷たい雨が、窓ガラスを叩き始めた。

西東京の数百万人の血流を懸けた、巨大資本たちの地獄の共宴が、今、幕を開けた。

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