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第204話 『西の関ヶ原(4) 狂気の黒字、あるいは飼い殺しのパイプ』

 昭和55年(1980年)、秋。

 横浜駅西口、相模鉄道本社の社長室。

 現場の特攻隊長・高見は、小田急電鉄の『中間決算報告書(写し)』をテーブルに放り投げ、鼻で笑った。

「……しぶといモンですね。箱根の更地化で莫大な特損を出し、ウチのバスに町田の客を吸い上げられているってのに、小田急の営業利益はしっかりと『黒字』をキープしてやがる」

 高見がタバコに火をつけると、相鉄のドン・川島は、最高級のブランデーグラスを傾けながら低く笑った。

「当然だ。小田急は腐っても新宿と小田原を結ぶ巨大動脈。毎日何百万という人間が、満員電車で小銭(通勤定期代)を落としていく。……赤字で首が回らない国鉄(JNR)のアホどもとは違い、彼らのインフラは『ただ走らせているだけ』で確実に黒字を生み出す完璧な装置だ」

「じゃあ社長、このまま生かしておくんですか? 今ならウチと京王の挟み撃ちで、奴らを完全に赤字転落(倒産)まで追い込めるチャンスですが……」

「……馬鹿を言うな、高見」

 川島の目が、氷のように冷たく光った。

「小田急が倒産などしてみろ。運輸省がしゃしゃり出てきて、国鉄かどこかの資本が介入してくるぞ。そんな面倒な事態は御免だ。……それに、小田原までのあの長大な線路の『維持費』や『保守点検』の莫大なコスト……誰が払うんだ? 我々か?」

 高見はハッとして、川島の顔を見た。

「……小田急という企業には、絶対に死なない程度のメシ(通勤客の運賃)を与え続けろ。彼ら自身のカネで、あの長大なインフラを維持させ続けるのだ。……我々相鉄は、彼らが運んできた客の『週末のレジャー消費』や『町田の巨大な商業利権』といった、最もオイシイ果実の上澄みだけを啜り上げればいい」

 川島は、窓の外の横浜の海を見下ろした。

「小田急は今後、一切の新規投資(変革)ができない。ただ、来る日も来る日も、安全に、黙々と、サラリーマンを新宿へ運ぶだけの『巨大なローカル線』になる。……インフラ屋にとって、これほど残酷で、完璧な『飼い殺し』はないだろう?」

     * * *

 同じ頃。

 新宿駅西口、小田急電鉄本社の重役室。

 鉄道事業本部長の御子柴は、自社の『中間決算報告書』を握りしめたまま、うつむいて震えていた。

 広い室内には、彼一人。分厚い絨毯の上に、いくつかの書類が散乱している。

「……黒字だ。……今期も、しっかりと、黒字だ……」

 御子柴の口から、乾いた笑い声が漏れた。

「フ、フフ……。国鉄の連中が何十兆円という赤字を垂れ流して国会で吊るし上げられているというのに、我が小田急は優秀だ。立派な黒字経営じゃないか……!!」

 だが、その声には一切の歓喜がなかった。

 彼の目の前にある「来期・事業計画書」の『新規設備投資』『新路線開発』の欄は、すべて銀行団によって「ゼロ(見送り)」と書き換えられていた。

 北の多摩丘陵では、京王が最新鋭の重機で巨大な未来都市を創り上げている。

 南の神奈川では、相鉄が町田の客を高級バスで奪い、海老名や湘南で巨大なレジャー・商業帝国を築いている。

 彼らが「インフラ・ディベロッパー」として、地図を書き換え、時代を創り、人々の欲望を熱狂させているその裏で。

 かつて箱根の山を切り拓き、流線型のロマンスカーで日本のインフラを牽引した誇り高き小田急は、今や「ただの鉄のパイプ」だった。

「……来る日も来る日も、満員電車に客をすし詰めにし、ただ新宿と町田を往復するだけ……!! 何も創れない! 何も変えられない!! 奪われる客を指をくわえて見ていることしかできないのに、毎月確実に入ってくる小銭(定期代)のおかげで、倒産おわりにすらしてくれないッ……!!」

 御子柴は、決算書を力任せに引き裂いた。

「アァァァァァァァッ!! なにが黒字だ!! なにが名門だ!! 我々は、相鉄に生かされているだけの、ただのローカル線じゃないかァァァァッッ!!!」

 重役室に、御子柴の狂気に満ちた叫びが響き渡る。

 血を流して死ぬことすら許されない。インフラとしての誇りを完全に去勢され、ただ永遠に「労働力の輸送パイプ」として生き長らえさせられる地獄。

 それこそが、相鉄のドン・川島が用意した、最もドス黒く、最も残酷な『西の関ヶ原』の結末であった。

 狂気と黒字の狭間で、小田急の誇りは、音を立てて崩れ去っていった。

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