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第203話 『西の関ヶ原(3) 北の防人、あるいは無慈悲なる重機の刃』

 昭和55年(1980年)、初夏。

 東京都と神奈川県の境に広がる多摩丘陵は、見渡す限りの赤土と、鼓膜を揺らす重機の轟音に支配されていた。

 国家の威信をかけた超巨大ベッドタウン『多摩ニュータウン』の建設。山を切り崩し、谷を埋め、一晩で地図の等高線が書き換わる狂気の現場である。

 その土煙の向こう側から、巨大なシールドマシンと無数のブルドーザーを引き連れて、南(神奈川方面)へと無慈悲に進軍してくる一団があった。

 新宿を起点とする巨大インフラ、**京王帝都電鉄(京王)**である。

「……遅れは許さん。大蔵省と建設省が描いた青写真ブループリント通りに、年内に多摩センターまでレールを敷け。その先の『橋本(相模原)』までの用地買収も、予定通り強行しろ」

 現場のプレハブ小屋で、京王の延伸プロジェクト責任者・陣内じんないは、冷徹な声で指示を飛ばしていた。

 彼の目には、南で暗躍する相鉄のような「他社への怨念」や「ドス黒い謀略」など微塵もない。ただひたすらに、国家の都市計画に相乗りし、最も合理的な直線距離でレールを延ばして客をかっさらう。それこそが京王の恐ろしさだった。

「陣内部長。……しかし、このまま相模原方面へ線路を延ばせば、完全に『小田急』のテリトリー(町田・相模大野圏内)とバッティングします。奴らも黙ってはいないのでは……?」

 若手社員が地図を指差して懸念を口にするが、陣内は氷のように冷たい目でそれを一蹴した。

「黙っていない? ……彼らに何ができるというんだ」

 陣内は、窓の外で唸りを上げる自社の巨大なクレーンを見上げた。

「箱根の戦いで相鉄に資金を枯渇させられ、ロッキード事件の余波で銀行から新規融資を止められている小田急に、我々の進軍を食い止める『防衛線(多摩線の延伸)』を引く体力など残っていない。彼らは今、南からは相鉄のバスに客を奪われ、完全に身動きが取れない状態だ」

 陣内は、コーヒーの紙コップを無造作にゴミ箱へ捨てた。

「……インフラの勝敗は、気合や怨念では決まらない。圧倒的な『資本』と『国家の認可』を持った者が、ただ物理的に土を掘る。それだけのことだ。小田急の事情など知ったことか。我々はただ、彼らの客を合法的に刈り取る」

     * * *

 同じ頃。

 京王の最前線からわずか数キロ南。小田急側の防衛拠点である「新百合ヶ丘」の工事事務所。

「……くそッ!! 京王の連中、もうそこまで来やがった!!」

 泥だらけの長靴を履いた小田急の現場監督が、ヘルメットを床に叩きつけて吠えた。

 机の上には、京王の圧倒的な進捗状況を記した報告書と、自社の「予算ゼロ」を示す絶望的な経理書類が並んでいる。

「新宿の本社(御子柴)は何をやってるんだ! カネがないなら、せめて重機の一つでも回してくれ! このままじゃ、ウチの客になるはずだった多摩・相模原の連中が、ぜんぶ京王のレールで新宿に吸い上げられちまうぞ!!」

 現場の男たちは、血の涙を流さんばかりに悔しがった。

 線路というものは、一度引かれてしまえば終わりだ。住民の通勤ルート(生活インフラ)が京王に固定されてしまえば、後からどれだけ素晴らしいサービスを提供しようとも、二度と客は戻ってこない。

「……監督。本社からの通達です。……『予算は下りない。既存のダイヤを限界まで過密にして、ロマンスカーの運行本数を増やして対抗しろ』と……」

 電話を切った若手社員が、震える声で告げた。

「……ふざけるなッ!! 電車の本数を増やしただけで、どうやってあの京王のブルドーザーの大群を食い止めろってんだ!!」

 監督の悲痛な叫びが、プレハブ小屋に虚しく響く。

 カネがない。重機がない。線路を延ばせない。

 あるのは、南の相鉄バスと北の京王(重機)に挟み撃ちにされ、徐々に息の根を止められていくという絶対的な現実だけだった。

 箱根の呪いと、国家の闇。

 そのすべてのツケを払わされるように、小田急の誇りは多摩の赤土の中で無惨にすり潰されていく。

 西の関ヶ原――。前哨戦はまだ序盤でありながら、すでに小田急の「詰み(チェックメイト)」の盤面は、誰の目にも明らかなほど完成しつつあった。

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