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第202話 『西の関ヶ原(2) 甘い猛毒と、逃げ場なき檻』

 昭和55年(1980年)、春。

 相鉄が町田駅前に「横浜直行バス」という名の楔を打ち込んでから、数ヶ月が経過していた。

 日曜日の午前。小田急町田駅のコンコースは、新宿へ向かう買い物客や行楽客でごった返しているように見えた。だが、水面下で確実に「異変」は起きていた。

「……おい、新宿行きの急行、また座れないぞ。ずっと立ちっぱなしでデパートに行くのはキツいな」

「ねえ、だったら『横浜』に行かない? ほら、あそこのバス……」

 駅前のロータリーで、ある家族連れが足を止めた。

 彼らの視線の先には、深紅のラインが入った真新しい『相鉄バス』がドアを開けて待機している。車内には、ホテルのラウンジを思わせるふかふかのリクライニングシートが並んでいた。

「……横浜なら、座ったまま直通で行けるし、中華街でご飯も食べられるわよ。交通費も小田急と国鉄を乗り継ぐより安いし」

「そうだな。……俺たち、住所は東京だけど、どう考えても横浜のほうが近いしな」

 家族は、小田急の改札に背を向け、吸い込まれるように相鉄バスへと乗り込んでいった。

 拡声器を使った下品な扇動など一切必要なかった。

 『インフラの快適さ』――ただそれだけで、町田市民が抱えていた「都民コンプレックス」はあっさりと氷解し、「実質的な神奈川県民」としてのアイデンティティが静かに、そして確実に上書きされていく。

     * * *

「……御子柴局長。今週末の、町田の乗降客数のデータです」

 新宿・小田急電鉄本社。

 重役室のデスクに叩きつけられた報告書を見て、鉄道事業本部長の御子柴はギリッと奥歯を噛み鳴らした。

「……休日の乗客数が、前月比で微減だと? いや、それだけじゃない。駅前の『小田急百貨店・町田店』の週末の売上も連動して落ちているじゃないか!」

「はい……。町田の住民が、新宿の小田急百貨店や、地元の町田店でカネを落とさず、バスに乗って『横浜の相鉄ジョイナス』や中華街へと流出しているものと思われます」

 部下の言葉に、御子柴は絶望的なめまいを覚えた。

 相鉄のバス戦術は、単に「電車の運賃」を奪うだけではない。休日の巨大な消費行動(デパートでの買い物や外食)そのものを、小田急の経済圏から根こそぎ「横浜」へと連れ去るという、悪魔のような兵糧攻めだったのだ。

「……おのれ、相鉄ッ!! すぐにウチも迎撃のバス路線を新設しろ! 町田から江ノ島や鎌倉、小田原へ向かう『小田急のレジャー直行便』を出して、客を自社の経済圏に引き戻すんだ!!」

 御子柴が血走った目で叫ぶと、部下は蒼白な顔で首を振った。

「局長……目を覚ましてください。江ノ島も、鎌倉も、小田原も……かつての箱根山戦争以降、すでにすべて【相鉄の支配下】に落ちているじゃありませんか!」

「……ッ!!」

「もし我々がなけなしの資金で江ノ島行きの直行バスを出せば、それは単に『自社のコストで、相鉄の観光地に客をデリバリーしてやるだけの利益供与』にしかなりません! 我々にはもう、南にも西にも、客を逃がす『自前のレジャー・インフラ』など一つも残されていないんです!!」

 御子柴は、書類を床に取り落とした。

 箱根を失った小田急は、神奈川県下の主要な観光地もすべて相鉄に制圧されていた。

 彼らは今や、広大なインフラ網を持つ鉄道会社ではなく、ただ新宿と町田を往復するだけの「巨大なパイプ(囚人)」に成り下がっていたのだ。しかも、ロッキード事件の余波で銀行団から「新規投資」を完全に凍結されている。

 北からは京王の重機が多摩の赤土を削りながら南下してきており、南からは相鉄のバスが、小田急の最後の血液(町田の客)を吸い上げている。

 呪われた獅子は、完全な檻の中で、ただ己の肉が削り取られていくのを黙って見ていることしかできなかった。

     * * *

 一方、横浜駅西口・相模鉄道本社。

「……社長。町田の連中、完全に『横浜の蜜』の味を覚えましたよ。休日の直行バスは、連日満席のドル箱状態です」

 社長室で、高見がニヤリと笑いながら報告書を読み上げた。

「ああ、計算通りだ」

 川島社長は、最高級の葉巻をくゆらせながら、窓の外の巨大な相鉄ジョイナス(自社ビル)を見下ろした。

「小田急の悲鳴がここまで聞こえてきそうだな。奴らは今頃、江ノ島や小田原にすら逃げ道がない現実に絶望している頃だろう。……高見。箱根の『砂場』から上がってきた裏金を、すべてこの町田戦線にブチ込め」

「……へへッ。バスの増便ですか?」

「それだけではない。休日の行楽客レジャーのハッキングは完了した。……次は、平日の『通勤客』だ」

 川島の目が、冷酷な光を帯びる。

「早朝と深夜に、ビジネスマン向けの『超・豪華通勤バス』を町田から横浜へ走らせろ。満員電車で新宿へ通い、すり減っている企業戦士どもに、絶対に逃げられない『極上の快適シート』を与えてやるんだ。……町田の連中の生活のすべてを、小田急から剥がし取れ」

 箱根の成金から搾り取った無尽蔵の闇資金が、新たな「バス」という名の劇薬に姿を変え、町田の街へと大量に投下されていく。

 小田急を完全に包囲した相鉄のドス黒い侵食は、いよいよその本性を現し始めていた。

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