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第201話 『西の関ヶ原(1) 呪われた獅子と、相模の黒い猛毒』

短いです。

 昭和54年(1979年)、冬。

 新宿駅西口、小田急電鉄本社の重役室。

 鉄道事業本部長の御子柴は、メガバンクの融資担当者が置いていった「一括返済を求める通達書」を前に、血の気を失っていた。

「……また、貸し剥がしか。箱根のレイクサイドホテルを更地にして売り払ったカネも、すべて銀行の連中に吸い上げられたというのに……ッ」

 小田急の金庫は、文字通り空っぽだった。

 かつての箱根山戦争。西武鉄道の堤康次郎に対抗するため、小田急は新宿の本陣を担保に入れ、運輸利権を牛耳る『大物政治家』の口利きで莫大なシンジケートローンを組んだ。

 だが、「黒いピーナッツ(ロッキード事件)」によってその政治家が特捜部に逮捕されると、防波堤を失った小田急に対し、銀行は手のひらを返して容赦ない貸し剥がしを実行した。

 そこに、相鉄の狡猾な兵糧攻め(ホテルへの物資搬入ストップ)が致命傷となり、小田急は箱根の城を手放すまでに追い詰められたのだ。

「御子柴局長! ……北の多摩丘陵で、京王電鉄のブルドーザーが止まりません! 奴ら、ロッキード事件で運輸省が機能不全に陥っている『政治の空白』を突き、猛烈なスピードで相模原線を南下させています!」

 部下の悲痛な叫びが響く。

 京王は、国家の混乱すらインフラ拡張の追い風にしていた。このままでは、小田急のドル箱である町田・相模大野の客が、根こそぎ新宿(京王線)へと奪われる。

「……だが、防衛線(多摩線の延伸)を引くカネなど、今のウチには一円もない……。町田だ。町田の既存路線だけは、這いつくばってでも死守しろ……!」

 政治の闇と銀行に首を絞められ、ただ防戦一方となる「呪われた獅子」。それが、今の小田急の姿だった。

     * * *

 同じ頃。

 横浜駅西口、相模鉄道本社の社長室。

 相鉄のドン・川島と、現場の特攻隊長・高見は、関東全域の『鉄脈図』を冷ややかに見下ろしていた。

「……あっけねえもんだな。俺たちが箱根でシーツと飯の供給を止めただけで、借金まみれの小田急は勝手に自滅しやがった」

 高見が、愉快そうにタバコの煙を吐き出す。

「ああ。……そして我々には、箱根の『砂場』でアホな成金どもから搾り取った無尽蔵の特殊回収金(軍資金)がある」

 川島は、葉巻の先を赤く燃え上がらせながら、地図上の「町田」から「横浜」へ向けて、一本の太い直線を引いた。

「北の京王が、重機で小田急の赤土を削っている間に。……我々相鉄は、成金どもから巻き上げたカネを使い、町田の駅前に『横浜直行の高速バス』を大量に流し込む」

 川島の低い声が、重く響く。

「線路を引くには莫大なカネと時間がいるが、バスの路線免許など、運輸省の陸運局を少し『調整』してやるだけでいくらでも生み出せる。……新宿への地獄のような満員電車に疲弊し、『都民コンプレックス』をこじらせた町田の連中に、ふかふかのシートと横浜の中華街という『極上の劇薬クスリ』を与えてやるのだ」

「……ふふふ。休日の買い物客からジワジワと『快適さ(毒)』を味わわせ、町田の毛細血管から小田急の運賃収入を、すべて横浜へと吸い尽くすわけですね」

 高見は、悪魔のような笑みを浮かべた。

 メガホンで「お前らは神奈川県民だ」と叫ぶ必要などない。人間のアイデンティティなど、インフラの利便性一つで簡単に書き換わるのだ。

     * * *

 数日後。東京都町田市、小田急町田駅前。

 冷たい冬の雨が降る中、駅長室からロータリーを見下ろしていた御子柴の視界の端で、何かが動いた。

 雑踏の片隅に、見慣れない真新しいバス停留所の標識が、まるで小田急の死を宣告する墓標のように静かに打ち込まれていたのだ。

 『相鉄バス:町田駅〜横浜駅直行便』

「……なっ!?」

 御子柴が窓に張り付く。

 小田急のテリトリーのど真ん中に、音もなく突き立てられた「南からの刃」。

 その停留所に、鮮やかなカラーリングの真新しい『相鉄バス』が、水しぶきを上げて滑り込んできた。

「……相鉄だと……? なぜ奴らがここに……! 箱根で我々を地獄へ突き落としただけでは飽き足らず、最後の命綱まで……ッ!!」

 御子柴の悲鳴は、雨音に掻き消された。

 小田急が、銀行の貸し剥がしに首を絞められ、北の京王の重機に怯えている間に。相鉄は町田の毛細血管に『バス』という猛毒を流し込み、奴らの最後の血液を吸い尽くそうとしている。

 町田駅前。巨大な百貨店の足元で、血の一滴すら流さない、冷徹で底知れぬ「インフラの兵糧攻め」が、今、静かに脈打っていた。

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