第2話 老害たちの宴と、未来からの予言書
品川・高輪。
後にプリンスホテルや高級マンションが建ち並ぶこの地も、昭和38年の今はまだ、煤けた木造家屋と中小企業のビルが混在する雑多な街だった。
その一角に、京浜急行電鉄の本社ビルがある。
と言っても、令和のガラス張りのオフィスではない。コンクリートの壁は薄汚れ、窓枠は錆びついた鉄製だ。
俺は秘書の佐山を従え、重厚な正面玄関をくぐった。
「おはようございます、五代専務!」
すれ違う社員たちが、直立不動で敬礼してくる。
昭和の体育会系だ。だが、彼らの目には覇気がない。「どうせ今日も昨日と同じ一日だ」という諦めが見える。
俺は一瞥もくれず、最上階の役員会議室へと向かった。
扉を開けた瞬間、強烈な紫煙と、加齢臭まじりの淀んだ空気が俺を包んだ。
「……遅いぞ、五代くん」
長テーブルの向こうで、白髪の老人たちが一斉に俺を見た。
彼らは、京急の経営を牛耳る重役たちだ。
皆、戦中戦後の混乱期を生き抜いてきた古狸。だが、その目はすでに濁っている。彼らが今、守ろうとしているのは「会社の未来」ではなく「自分の退職金」だけだ。
上座に座っているのは、社長の大原。俺の叔父にあたる人物だ。
彼だけは鋭い眼光を保っているが、この保守的な役員たちを御しきれずにいる。
「申し訳ありません。現場の『遅さ』を肌で感じておりましたので」
俺は皮肉を込めて言い放ち、末席の革張りの椅子に深く腰掛けた。
「さて、始めようか」
経理担当の常務、谷口が口火を切った。この男が、事なかれ主義の筆頭だ。
「本日の議題は、予算の削減についてだ。車両の修繕費が嵩んでいる。新型車両の導入は見送り、既存車両の延命工事で凌ぐことに……」
「くだらない」
俺は、谷口の言葉を遮った。
「な、なんだと?」
谷口が目を丸くする。
「延命工事? ボロに化粧をしてどうするんです。そんな後ろ向きな議論をするために、俺を呼んだんですか?」
会議室がざわついた。
若造が生意気な、という視線が突き刺さる。だが、俺は怯まない。
前世の俺は、技術者として現場で泥水をすすってきた。会議室で数字遊びをしている連中とは覚悟が違う。
「なら、君に代案があるのかね?」
谷口が不快そうに鼻を鳴らした。
「金がないのは事実だ。東急さんのようなバックボーンも、国鉄さんのような税金もない。我々は爪に火を点すように生きるしかないんだよ」
出た。「東急さん」。
この会社の上層部は、未だに「大東急」の亡霊に怯えている。
「金がない? ……ありますよ」
俺は立ち上がり、懐から一枚の地図を取り出し、テーブルの中央に投げ出した。
「なんだ、これは」
「横浜駅周辺の地図だ。……西口を見てください」
そこには、相模鉄道(相鉄)が開発を進める横浜駅西口の繁栄ぶりが記されていた。
砂利の運搬から身を起こした相鉄は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
「五代くん、相鉄さんの自慢話なら他でやりたまえ」
「違います。……これを、買うんです」
一瞬、時が止まった。
そして、爆発的な失笑が起きた。
「ははは! 相鉄を買収だと!? 正気か!」
「向こうは飛ぶ鳥を落とす勢いだぞ! 逆にこっちが買われるのがオチだ!」
「それに、線路が繋がらないじゃないか。向こうは国鉄と同じ狭軌(1067ミリ)。ウチは標準軌(1435ミリ)。水と油だ」
谷口が勝ち誇ったように言った。
「技術的にも無理だ。線路幅が違う。君は技術畑のくせに、そんなことも分からんのか?」
……きた。
その言葉を待っていた。
「常務。あんたこそ分かっていない」
俺はホワイトボードの前に立ち、二本の線を引いた。
「狭軌と標準軌。……あんた方は、標準軌を『ただ幅が広いだけ』だと思っている。だが、それは違う。これは**『可能性の幅』**だ」
俺は、未来の技術知識を総動員してまくし立てた。
「幅が広ければ、より大きなモーターを積める。車体も安定する。カーブでの踏ん張りも効く。……つまり、潜在的なスピードの限界値が違うんです」
俺は黒マジックで、ボードに大きく数字を書いた。
『160km/h』
「は? ひゃ、160キロ?」
「新幹線じゃないんだぞ!」
「出せますよ。標準軌なら」
俺は断言した。
「今の国鉄は狭軌の限界に縛られている。東急もだ。だが、我々だけが、世界標準の『足』を持っている。……これを活かさずに、何が鉄道屋ですか!」
圧倒的な熱量に、役員たちが言葉を失う。
だが、谷口だけは食い下がった。
「夢物語は結構だ。だが、現実は金だ。相鉄を買う金など、どこにもない!」
「金なら、作れます」
俺はニヤリと笑った。
ここからが、転生者の特権、**「未来予知」**の時間だ。
「社長」
俺は、ずっと黙って聞いていた叔父の大原社長に向き直った。
「来月、政府からある発表があります」
「……発表?」
「はい。第三京浜道路の建設計画と、それに伴う港北エリアの大規模開発です」
もちろん、まだ新聞にも載っていない極秘情報だ。
だが、前世の俺は都市計画の歴史を熟知している。
「今、このエリアの土地は二束三文です。誰も見向きもしない山林だ。……これを、会社に残っている予備費で買い占めてください」
「な……馬鹿な! あんな山奥、タヌキしか出んぞ!」
役員たちが騒ぎ出す。
「タヌキじゃない。……『金』が生えてくるんです」
俺は冷徹に言い放った。
「私の計算では、半年後には地価が5倍になります。それを担保にすれば、銀行はいくらでも金を貸す。相鉄の株を買い占める軍資金なんて、お釣りが来るほどだ」
シン、と静まり返る会議室。
あまりの断言ぶりに、誰も反論できない。
ただ一人、大原社長だけが、面白そうに目を細めていた。
「……五代。もし外れたらどうする?」
「その時は、腹を切りますよ。……もっとも、切る腹なんてないほど肥え太ることになりますがね」
大原社長は、ふっと笑った。
彼もまた、戦後の混乱期を生き抜いたギャンブラーなのだ。
「いいだろう。……谷口、予備費を五代に預けろ」
「しゃ、社長!?」
「若者が命を賭けると言っているんだ。老いぼれが邪魔をするな」
社長の一声で、流れは決まった。
俺は深々と頭を下げた。だが、顔は笑っていた。
(勝った……)
これで軍資金は手に入る。
土地転がしなんて、鉄道屋の本道じゃない。だが、勝つためには何でも利用する。
会議の後、廊下で待っていた佐山が、青い顔で駆け寄ってきた。
「せ、専務! 本当なんですか? その土地の話……」
「本当さ。佐山、お前もへそくりがあるなら買っておけ。億万長者になれるぞ」
俺は窓の外、広がる東京の空を見上げた。
資金の目処はついた。次は技術だ。
今のボロい車両では、世界とは戦えない。
「……さて、次は『技術部』を殴りに行くか」
俺の脳裏には、一人の男の顔が浮かんでいた。
加賀谷匠。
現場一筋、頑固一徹の職人肌。後に俺の右腕となる、天才技術者だ。
まずは彼を口説き落とし、あの「ドレミファインバータ」の設計図を叩き込まねばならない。
俺はネクタイを緩め、足早に歩き出した。
その背中は、もはや迷いを知らない「独裁者」のそれだった。




