第19話 嵐の中の要塞と、絶対に沈まない街
昭和43年(1968年)、9月。
横浜ランドマークタワーのグランドオープンを翌月に控えたある日。
気象庁は、緊急会見を開いていた。
「大型で非常に強い台風○号が、関東地方を直撃する恐れがあります」
中心気圧950ヘクトパスカル。
伊勢湾台風クラスの怪物が、東京湾に向かって北上していた。
当時の横浜は、まだ治水対策が不十分だ。高潮と暴風雨が襲えば、ひとたまりもない。
京急本社・防災指令室。
俺(五代)は、ヘルメットを被り、腕組みをしてモニター(白黒テレビ)を睨んでいた。
「……来たな」
隣にいる技術部長の加賀谷が、青ざめた顔で報告する。
「専務。三崎のマリン・ドーム、風速40メートルを観測! 屋根の膜が悲鳴を上げています!」
三崎のドームは「エア(空気膜)構造」だ。
内部の気圧を高めて屋根を膨らませているが、もし停電して送風機が止まれば、屋根は萎んで崩落する。
さらに、強風で膜が裂ければ終わりだ。
「送風機は?」
「予備電源でフル稼働中ですが……。もし商用電源が落ちたら、燃料が持つかどうか……」
「……三崎は現場主任の大崎に任せろ。あいつなら何とかする」
俺は視線を横浜の地図に移した。
「問題はこっちだ。……みなとみらいだ」
* * *
深夜。
暴風雨が横浜を叩きつけた。
横浜駅周辺は、すでに道路が冠水し始めていた。帷子川が氾濫寸前なのだ。
だが、そのすぐ隣にある「みなとみらい地区」だけは、奇妙なほど静かだった。
建設現場のプレハブ。
現場監督たちが、計器の数値を見て驚愕していた。
「……おい、信じられんぞ」
「なんだ?」
「地下水位が上がってない。……周辺は海みたいなのに、この敷地内だけドライなままだ!」
これこそ、第15話で五代が強行した**「薬液注入工法(地盤改良)」**の効果だった。
地下深くまで注入された凝固剤が、巨大な「止水壁」となり、海水や地下水の浸入を完璧にシャットアウトしていたのだ。
さらに、俺が設計段階で仕込んでおいた**「高潮対策(スーパー堤防)」**。
地盤そのものを周辺より2メートル高く造成(かさ上げ)していたため、高潮の波が来ても、敷地内には一滴も入らない。
「……専務の言った通りだ」
加賀谷が窓の外、荒れ狂う海を見た。
「『ここは未来都市だ。水浸しになんかさせない』って……。本当に要塞を作りやがった」
だが、試練は風だ。
建設中のランドマークタワー(高さ296m)。
まだガラスが入っていない階層もある。猛烈な風が吹き抜ける。
ギギギギギ……
鉄骨が不気味な音を立てて軋む。
最上階の振幅は、計算上、数メートルに達しているはずだ。
「……揺れています! 震度4相当!」
無線が叫ぶ。
「これ以上揺れたら、接合部のボルトが飛びます!」
「耐えろ……!」
俺は指令室で祈るように呟いた。
このビルの心柱には、当時の最新技術、いや、未来の技術である**「制振構造(柔構造)」**を採用している。
風の力に逆らわず、柳のようにしなって逃がす。
五重塔と同じ理屈だ。
* * *
一方、三崎のドーム。
大崎主任は、停電した暗闇の中で叫んでいた。
「送風機、止めんな! バッテリー切れそうなら、京急の変電所から直結しろ!」
「で、でも電圧が違います!」
「インバータ噛ませろ! 電車動かす電気を全部こっちへ回せ!」
大崎は、三崎口駅に停まっていた電車のパンタグラフから、強引に電力を引き込むという荒技に出た。
本来ならご法度だが、今は緊急事態だ。
ドームの白い屋根が、暴風の中で生き物のように波打つ。
だが、内側からの圧力(京急魂)が、それを押し返す。
「……絶対に潰させねえ。ここは俺たちの夢の城だ!」
* * *
翌朝。
台風一過の青空が広がっていた。
横浜駅周辺は泥水に浸かり、復旧作業に追われていた。
だが、その向こう側。
朝日を浴びて、白く輝く巨塔がそびえ立っていた。
横浜ランドマークタワー。
ガラスの一枚も割れていない。
足元のショッピングモールも、地下街も、一滴の浸水もなかった。
「……勝ったな」
俺は、防災指令室の窓を開けた。
入ってくる風は、もう穏やかだった。
電話が鳴る。三崎の大崎からだ。
『……専務。ドーム、無事です。屋根、パンパンに張ってますよ』
「よくやった。……ボーナス弾んでやるから、今日は寝ろ」
俺は受話器を置いた。
加賀谷が、泥だらけの顔で笑っている。
「専務。これだけの嵐に無傷で耐えたとなれば……最高の宣伝になりますね」
「ああ。『絶対に沈まない街』だ」
俺は頷いた。
「テナントの連中も、これで安心するだろう。……IBMのマシンも、商社のテレックスも、ここでは止まらない」
自然の猛威すらも、大京急帝国の要塞を崩すことはできなかった。
むしろ、この台風が証明してしまったのだ。
横浜の新しい中心は、もはや浸水する横浜駅西口ではなく、この「みなとみらい」にあるのだと。
「よし。……掃除だ」
俺は背伸びをした。
「来月はグランドオープンだ。日本中から客が来るぞ。……塵一つ残すな」
台風を乗り越え、ついにその時が来る。
横浜ランドマークタワー、開業。
それは、京急が「一私鉄」から「財閥」へと進化する、歴史的な瞬間だった。




