第154話 『日常:成金編(2) ラウンジの虚勢と、終わらないマウント合戦』
昭和54年、初夏。
箱根山頂の独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。第2層のプレミアム・ラウンジは、朝陽が差し込む優雅なブレックファーストの時間を迎えていた。
そこに、真っ赤なスーツの男が、引きつった笑みを顔に貼り付けて現れた。
たった一時間の間に「200万円の請求書」にサインをさせられ、絶望のどん底にいるはずの男。だが、女を連れてラウンジに足を踏み入れた瞬間、彼の背筋は不自然なほどピンと伸び、肩で風を切って歩き始めた。
「……おう。遅かったじゃねえか、直線番長」
昨夜、男と口論になり、「箱根の王を決めてやる」と煽り合った純白のポルシェのオーナーが、クロワッサンを齧りながら鼻で笑った。
「昨日はずいぶんと威勢よく飛び出していったが、結局ビビッて戻ってきたのか? それとも、自慢のカウンタックを崖にでも落としたか?」
その言葉に、ラウンジにいた他の成金たちの視線が一斉に赤いスーツの男に集まる。
ここで「砂場に突っ込んで200万払わされた」などと言えば、一生の恥。社会的死を意味する。男の額に、タラリと冷や汗が流れた。
「……フッ。崖に落とすだと? 笑わせるな」
男は、必死に震えを抑えながら、この世で最も尊大な態度を装って言い放った。
「俺のテクニックとカウンタックの加速が凄すぎてな。……相鉄のコンシェルジュが青ざめて、俺を特別に『VIP専用のテスト・トラック(砂場)』へ誘導したんだよ」
「……テスト・トラックだと?」
ポルシェの男が眉をひそめる。
「ああ。一般車が走る公道じゃ、俺のスピードは危険すぎるってことさ。……相鉄の奴ら、俺の走りにいたく感動してな。一晩中、一番高い50万のスイートルームに俺をタダ同然(※本当は全額自腹)で招待して、最高の酒を振る舞ってくれたぜ。……お前らみたいな『普通の客』には、到底味わえない特別待遇だったな!」
男は、女の肩を抱き寄せながら、さも自分が選ばれた特権階級であるかのように高笑いをした。
200万円の罰金を、「VIPとしての特別待遇を受けた証明」へと脳内で強引にすり替え、見栄のメッキで塗り固めたのだ。
だが、その虚勢を完璧な「真実」へと昇華させたのは、相鉄のインフラ屋としてのえげつないアシストだった。
「……おはようございます。皆様」
そこへ、昨夜200万円の請求書を突きつけたあのシニア・コンシェルジュが、完璧な笑顔を浮かべてテーブルに近づいてきた。彼は、赤いスーツの男に恭しく一礼すると、周囲の成金たちにも聞こえる声でこう言った。
「昨夜は、お客様の圧倒的なドライビングに、当館のレスキューチームも舌を巻いておりました。……『あの速度域からの完璧なブレーキングと、当リゾートが誇る特殊制動砂の性能テストに、これ以上ないデータを残していただいた』と、高見現場監督も大変感謝しております」
「……!!」
男の顔が、驚きと歓喜でパッと明るくなった。
(相鉄が、俺の嘘に合わせて話を盛ってくれた……!!)
「つきましては、お車は当館の地下整備ドックにて、最高級のポリマーコーティングを施して磨き上げております。……お客様のような『本物のVIP』をお迎えできたこと、ハコネ・スカイ・ヴィレッジの誇りでございます」
コンシェルジュの完璧なアシストにより、ラウンジの空気は一変した。
「な、何だと……? 相鉄の現場監督が感謝するほどの走りだと……?」
ポルシェの男をはじめ、周囲の成金たちの目に「嫉妬」の色が浮かぶ。ただの泥酔事故が、相鉄公認の「伝説のテストラン」へと見事にすり替わった瞬間だった。
「……フッ、聞いたか? これが『本物』への待遇ってやつさ」
男は、心の中でコンシェルジュに土下座しながら、表面上は最高に勝ち誇った顔でコーヒーを啜った。
司令室のモニターで、その一部始終を見ていた若手社員が、呆気にとられて呟いた。
「……た、高見さん。なんであいつの嘘に、あそこまで付き合ってやるんですか? 洗車までサービスしてやるなんて……」
「……バカ野郎。サービスじゃねえよ」
高見が、ニヤリと悪魔のように笑った。
「あいつは、みんなの前であそこまで持ち上げられちまったんだ。……これで、後になって『やっぱりあの200万の請求書、少し安くならないか』なんて野暮な値切り交渉は、口が裂けてもできなくなった」
「……ッ!!」
「さらにだ」
司令室の奥で、川島社長が満足げに葉巻を咥える。
「……あいつが『VIP専用のテスト・トラックを走った』と自慢したことで、周囲の成金どもはどう思う?」
モニターの中では、嫉妬に狂ったポルシェの男が、コンシェルジュに食って掛かっていた。
『おい! 俺もそのVIP専用のトラックとやらを走らせろ! 俺のポルシェの方が速いことを証明してやる! 100万でも200万でも払ってやるよ!!』
「……見たか」
川島が低く笑う。
「見栄を張り合う成金どもにとって、『他人が受けた特別待遇』は、何よりも許せない屈辱だ。……あいつらは、自分から進んであの砂場(ボッタクリの罠)に突っ込むための『入場券』を、札束を握りしめて奪い合うようになる」
一台の自爆事故。
それを「VIPの証」として箔付けしてやることで、当人からは値切りの余地を完全に奪い、周囲の成金たちには「新たな課金コンテンツ」として売りつける。
大衆から小銭を搾り取るインフラが「第一層」ならば、成金から数百万の束を自発的に献上させるこの心理戦こそが、「第二層」の真の集金システムだった。
「……さあ、ピエロたちの朝食は終わりだ。……チェックアウトの精算カウンターで、彼らの顔がどう歪むか、見物させてもらおうじゃないか」
箱根の山頂。
見栄と嫉妬が渦巻く狂気のラウンジで、相鉄の錬金術は今日も完璧な精度で稼働し続けていた。




