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第153話 『日常:成金編(1) 砂まみれの請求書と、朝の屈辱』

 昭和54年、初夏。

 箱根山頂の独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。第2層の最奥に位置する、一泊50万円の『特別隔離室(サウナ付き最高級スイート)』のキングサイズベッドで、真っ赤なスーツの男は目を覚ました。

「……う、うぅ……頭が痛え……」

 二日酔いの激しい頭痛と共に、昨夜の記憶が断片的に蘇ってくる。

 プレミアム・ラウンジでの見栄の張り合い。女の前で引けなくなり、車の鍵を引ったくってショールームを飛び出したこと。そして……アクセルをベタ踏みしてカーブを曲がりきれず、猛烈な砂煙の中に突っ込んだこと。

「ハッ……!! お、俺の車は!? カウンタックはどうなった!?」

 男が跳ね起きた瞬間、スイートルームの重厚なマホガニーの扉が静かにノックされた。

 現れたのは、燕尾服を隙なく着こなした相鉄のシニア・コンシェルジュだった。彼は銀色のトレイに、淹れたてのブラックコーヒーとアスピリン(頭痛薬)、そして……黒革の重厚なバインダーを乗せていた。

「……おはようございます。お目覚めはいかがでしょうか」

「お、おい! 俺の車だ! 昨日の夜、俺は……!」

 焦る男に対し、コンシェルジュは完璧な営業スマイルを一切崩さずに、深く一礼した。

「ご安心くださいませ。お客様の素晴らしいお車は、無傷のまま、当館の地下整備ドックにてお預かりしております。……昨夜は、大変でございましたね」

「あ……ああ、そうか。無事だったか……」

 男は安堵のあまり、ベッドにへたり込んだ。自慢の愛車がスクラップにならなかったこと、そして何より、命があったことに。

 だが、インフラ屋の真の「集金」は、客が最も安堵したこの瞬間から始まる。

「……お客様。昨夜は深い霧の影響か、当館の『私有地内の作業用道路』に誤って進入され、制動用の砂地サンドトラップで立ち往生されたご様子。……パトロール中の当館のレスキューチームが発見し、迅速に牽引・救助し、こちらのお部屋へとお運びいたしました」

「……お、おう。世話をかけたな」

 男はバツが悪そうに視線を逸らす。隣で寝ている女を起こさないよう、声を潜めた。

「つきましては……昨夜の『緊急救助』および、本日の『ご宿泊費用』に関するご精算書をお持ちいたしました」

 コンシェルジュが、黒革のバインダーを静かに開いて男の目の前に差し出した。

 そこに印字されていた数字を見て、男の目は限界まで見開かれた。

「……なっ!? に、にひゃくまんえん(200万円)だとぉ!?」

 昭和54年当時の200万円。大卒の初任給が10万円程度の時代において、それは一般人の年収に匹敵する狂った金額だった。

「ふざけるな! いくらスイートだからって、一晩寝ただけでこんな額になるわけが……!」

「左様でございますね。内訳をご説明いたします」

 コンシェルジュは、バインダーの明細を美しい指先でなぞった。

「本スイートルームのご宿泊代が50万円。……深夜の緊急特殊牽引費用が50万円。……そして、お客様が突っ込まれ、汚染された『特殊衝撃吸収セラミック砂』の全入れ替えおよび清掃費用が……100万円でございます」

「す、砂の入れ替えに100万だと!? 足元を見るのもいい加減にしろ! 誰がこんなボッタクリ払うか! 警察を呼べ、警察を!」

 男が激昂して叫んだ、その時だった。

 コンシェルジュの笑顔の奥の目が、爬虫類のように冷たく、そしてえげつなく細められた。

「……警察、でございますか」

 コンシェルジュは、トレイの上のコーヒーカップを静かに置いた。

「……もちろん、お呼びしても構いません。しかし、警察が介入いたしますと、お客様が昨夜、『致死量を超えるアルコールを摂取した状態でハンドルを握られていた』という事実が、公の記録として残ってしまいます。……加えて、当リゾートの器物(砂場)を破損させた事故として、新聞や週刊誌の『三面記事』を飾ることになるやもしれませんが……よろしいので?」

「…………ッ!!」

 男の喉が、ヒュッと鳴った。

 警察沙汰になれば、飲酒運転で免許は取り消し。会社での社会的地位は失墜し、隣で寝ている女にも、昨夜見栄を張ったライバルたちにも「飲んで自爆したダサい男」として一生笑い者にされる。

 それだけは、自尊心の塊である彼にとって「死」よりも恐ろしいことだった。

「……当館といたしましては、大切なお客様の『名誉』を第一に考え、すべてを内密に、相鉄の私有地内での『軽微なトラブル』として処理させていただくご用意がございます。……この200万円は、お客様の『完璧なステータス』を守るための、ささやかな保険料とお考えいただければと」

 コンシェルジュが、純金製のモンブランの万年筆を差し出す。

 逃げ道は完全に塞がれていた。男は震える手で万年筆を受け取ると、唇を噛み締めながら、請求書にサインをするしかなかった。

「……まいど、ありがとうございます」

 コンシェルジュは、サインされた請求書を恭しく受け取り、深く一礼して部屋を後にした。

 司令室のモニターで、その一部始終を音声付きで監視していた高見が、呆れたように鼻を鳴らす。

「……バカな野郎だ。砂の入れ替えなんて、ブルドーザーで均すだけでタダ同然だっていうのによ。……見栄を張るために何百万も払うなんて、狂ってやがる」

「……だからこそ、最高の金づるなのだよ」

 川島社長が、司令室の奥でゆったりと葉巻を燻らせながら笑った。

「大衆が落とすのは『喜びの対価(小銭)』だ。だが、成金どもが落とすのは『恐怖と見栄の隠蔽料(大金)』だ。……彼らは、自分が無様に毟り取られたことすら誰にも言えず、沈黙するしかない。この要塞には、痛みを伴う金脈がまだまだ眠っている」

 箱根山頂の独立国家。

 第2層の朝は、大衆のさわやかな目覚めとは正反対の、屈辱と冷や汗、そしてインフラ屋の容赦なき集金システムによって幕を開けた。

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