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第152話 『日常:大衆編(3) 眠らない財布と、完全なる「独立国家」』

 昭和54年、初夏。

 箱根山頂に建国された独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。夜が更け、巨大なテーマパークのネオンが消えても、相鉄の集金システムが眠ることはなかった。

「ふぁぁ……よく寝た。おい母さん、朝飯どうする?」

 翌朝。リゾート内のファミリー向けホテルで目を覚ました田中は、大きく伸びをしながら妻に尋ねた。

 普段の旅行であれば、ホテルの高い朝食をケチり、「チェックアウトして、下山してから途中のファミレスか喫茶店で食べよう」と提案するのが田中の常だった。

「そうねえ……でもあなた、車を出すの面倒じゃない?」

 妻が窓の外を指差す。

 彼らのカローラは、ここから遠く離れた地下5階の『メガ・パーキング』の奥底に眠っている。車を出すには、荷物を持って駅まで歩き、トラムに乗り、巨大エスカレーターを下らなければならない。昨日までは「タダで乗れて楽しい」と思っていたトラムが、朝の慌ただしい時間帯においては、途端に**「車を取りに行くための巨大な心理的障壁(壁)」**へと姿を変えていた。

「うーん……確かに、今から車を取りに行くのは億劫だな……」

 田中が渋い顔をしたその時。ホテルのドアの下にスッと差し込まれていた一枚のチラシが目に入った。

 【宿泊者限定・和洋中50種類 モーニング大バイキング! 大人1000円・小学生半額】

「おい、これ安いぞ! 下界の喫茶店でモーニング食うのと大して変わらねえ! よし、ここで腹一杯食ってから帰ろう!」

「やったー! オムレツ食べるー!」

 子供たちが歓声を上げ、田中一家はホテルの巨大ダイニングへと吸い込まれていった。

 司令室のモニターでそれを見下ろしていた高見が、満足げに腕を組む。

「……インフラ屋が造る『独立国家』に、高い塀や鉄条網は必要ねえんだよ」

 高見がニヤリと笑う。

「……『外に出るのが面倒くさい』という物理的距離と、『中にいた方が圧倒的に安くて便利だ』という経済的誘惑。……この二つを組み合わせれば、大衆は自ら進んでこの国に留まり、最後の一円まで小銭を落としていく」

 朝食を終えた田中一家は、いよいよチェックアウトを済ませ、車を取りにメガ・パーキングへと向かう。

 だが、その動線にも、高見と川島社長のえげつない罠が張り巡らされていた。

 地下へと続く巨大エスカレーターの直前。そこには、箱根中の名産品をすべて集めた、体育館ほどもある『グランド・スーベニア(巨大土産物店)』が、獲物を待つ口のように大きく開いていた。

「ああっ! お父さん、職場のバラマキ用のお菓子買ってないわ!」

「おいおい、早くしろよ。……おおっ、この蒲鉾、美味そうだな。俺の酒のつまみにも買っとくか」

 彼らは「どうせこれから車に乗るんだから、荷物が増えても構わない」という心理状態にある。

 帰り際、車に乗る直前のこの場所こそが、大衆の財布の紐が最も緩む「最後の関所」だった。田中一家は、ここでさらに5000円分の土産物を買い込み、両手に大きな紙袋を提げて、ようやくカローラの待つ地下へと降りていった。

「……完璧だ。一円の取りこぼしもねえ」

 司令室の奥で、川島社長がゆっくりと拍手をした。

「到着時の昼食、テーマパークの遊興費、夜の宴会、翌朝の朝食、そして帰り際の土産代。……我々は大衆を『車』から引き剥がし、この箱庭の中に丸一日閉じ込めることで、本来なら小田原の街や他の観光地に落ちるはずだった金を、すべてこの山頂で『独占』した」

 川島の言う通りだった。

 田中一家は、箱根に来ておきながら、芦ノ湖の遊覧船にも乗らず、大涌谷の黒たまごも買わず、小田原の干物屋にも寄らなかった。ただひたすらに、相鉄が用意したインフラの上を歩き、相鉄の施設にのみ金を落とし続けたのだ。

 これこそが、他国の経済を干上がらせ、自国の富を極大化する「完全独立国家」の真の恐ろしさだった。

「……さて。ベースロード(大衆)の集金システムは、これで完全に自動化されたな」

 川島は葉巻を灰皿に押し付け、モニターの視点を第1層から、一つ上の階層――第2層『プレミアム・ラウンジ』へと切り替えた。

「……次は、自尊心という名の病に冒された、哀れなピエロたちの生態観察といこう」

 朝の光を浴びて輝くガラス張りのショールーム。

 そこには、昨夜「砂場」に突っ込み、多額の救助費用と清掃代を請求されて青ざめている成金たちが、震える手で小切手にサインをしている姿があった。

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