第151話 『日常:大衆編(2) 無料トラムと、回遊魚の導線』
昭和54年、初夏。
箱根山頂の独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。第1層のペデストリアンデッキ(歩行者専用回廊)は、夕刻を迎えても大衆の熱気が冷めることはなかった。
「ぷはぁーっ! 昼間から飲む生ビールは最高だな!」
巨大ビアホールでジョッキを空け、すっかり上機嫌になった田中は、顔を真っ赤にして店を出た。帰りの運転というプレッシャーから解放された父親の財布の紐は、すでに完全に崩壊している。
「あなた、飲みすぎよ。さあ、子供たちもパフェ食べたし、メインの『天空大露天風呂』に行くわよ!」
母親がガイドマップを開く。だが、巨大すぎるテーマパークの端から端まで歩くには、子供の足では少々遠い距離だった。
「えーっ、歩くの疲れたー!」
小学生の息子が駄々をこね始めたその時、彼らの頭上を、銀色に輝く未来的な車両が音もなく滑り込んできた。
「おっ、見ろ! モノレールだぞ!」
田中が指差した先には、高見が敷設したリゾート内の新交通システム『スカイ・トラム』の駅があった。最新鋭のゴムタイヤ式で、騒音も排気ガスも出さない。
そして何より、駅の入り口にはデカデカとこう書かれていた。
【リゾート内トラム 全線乗り放題・完全無料】
「おいおい、タダだってよ! さすが相鉄、太っ腹だな! よし、これに乗って大浴場まで行くぞ!」
田中一家は歓声を上げ、ピカピカのトラムへと飛び乗った。
その様子を、司令室のモニターで見下ろしていた若手社員が、不思議そうに首を傾げた。
「高見さん。あれだけの最新鋭トラムを走らせて、乗車賃を1円も取らないなんて、インフラ屋としては大赤字じゃないですか? 1回100円でも取れば、1日5万人で500万円の売上になるのに……」
「……バカ野郎。お前は本当に『木を見て森を見ない』三流だな」
現場監督の高見は、タバコの煙をゆっくりと吐き出しながら、モニターに映る無数のトラムの光の帯を指差した。
「いいか、若えの。もしあのトラムが『1回100円』だったらどうなる? 家族4人で往復800円だ。……大衆のオヤジは、急にケチくさい計算を始める。『800円払って風呂に行くくらいなら、今日はもう疲れたから、手前のホテルにチェックインして部屋の風呂でいいか』……そうやって、あいつらの『足』が止まるんだよ」
高見の言葉に、若手社員はハッとした。
「……大衆ってのはな、**『回遊魚』**と同じだ。泳ぎ(歩き)を止めた瞬間、俺たちの売上は死ぬ。……ホテルに引きこもらせてどうする? 外を歩かせ、腹を減らせ、目新しいものを見せて、延々と金を使わせ続けなきゃならねえ」
高見がコンソールのスイッチを切り替えると、モニターにはトラムの「降車駅」の映像が映し出された。
「……だから、移動のハードル(運賃)は徹底的にゼロにする。タダなら、大衆は面白がってリゾートの端から端まで、一日中行ったり来たりする。……そして、俺が仕掛けた『罠』はここからだ」
モニターの中。
無料のトラムを降りた田中一家は、『天空大露天風呂』へと向かって歩き出した。
だが、駅の改札から大浴場の入り口までの間には、**「全長200メートルに及ぶ、煌びやかな屋内アーケード(商店街)」**が、絶対に避けては通れない一本道として敷き詰められていた。
「うわっ! お父さん、あそこで射的やってる!」
「あら、ここの箱根細工、すごく綺麗ね。ちょっと見ていこうかしら」
「おーい、風呂上がりに飲むご当地サイダーも買っとくか!」
タダで移動できたという「得をした心理(謎の余裕)」と、目抜き通りの圧倒的な誘惑。
田中一家は、大浴場に辿り着くまでのわずか200メートルの間に、射的で500円、土産物で2000円、サイダーとつまみで800円……実に3300円もの「小銭」を、満面の笑みで落としていった。
「……見たか」
司令室の奥で、川島社長が低く笑った。
「たかだか数百円の運賃(交通費)をケチって客の足を止めるのは、三流の交通屋だ。……真のインフラ屋は、運賃を無料にして客を『回遊』させ、その先の商業施設で数千円を搾り取る。……トラムの電気代など、数万人が落とす土産代の消費税にも満たない」
交通機関を「単体の収益源」として見るのではなく、「巨大な搾取システム(街)の血管」として機能させる。
大衆は「タダで乗れてラッキーだ」と喜びながら、相鉄が敷いた完璧な導線の上を泳ぎ、無自覚に財布の中身を空にしていく。
「……彼らは、自分たちが『巧妙に歩かされている』ことなど気づかない。ただ、楽しい思い出と、少しだけ軽くなった財布を持って帰るだけだ」
川島は、モニターの中で射的の景品を抱えて喜ぶ子供たちを見つめた。
「……それでいい。彼らには、永遠に幸せな回遊魚でいてもらわねば困るからな」
箱根の山頂。完全独立国家の第一層では、今日も無料のトラムが無数の大衆を運び、途切れることのない「小銭の濁流」を相鉄の金庫へと注ぎ込み続けていた。




