第150話 『日常:大衆編(1) 無知なる楽園と、歩く「財布」たち』
昭和54年、初夏。
箱根の山頂にそびえ立つ完全独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。その最も巨大な面積を占める第1層「全天候型・温泉テーマパーク」は、今日も数万人の大衆が発する熱気と歓声に包まれていた。
ゴゴゴゴゴ……。
地下深くのメガ・パーキングから伸びる、長大なエスカレーター。
暗いコンクリートの底から、光溢れる地上へと吸い上げられてきた田中一家(父・母・小学生の子供二人)は、目の前に広がった光景に息を呑んだ。
「うわぁっ……! お父さん、すっげえ!! 空の上に街がある!!」
「こら、走るんじゃないわよ! 危ない……あれ?」
母親が慌てて子供たちの手を引こうとして、ふと気づく。
そこには、アスファルトの道路も、横断歩道も、排気ガスの匂いも一切存在しなかった。見渡す限り続くのは、清潔なタイルが敷き詰められた広大な『ペデストリアンデッキ(歩行者専用空中回廊)』。
車という存在が、この空間からは完全に、そして物理的に排除されていたのだ。
「……すげえな。本当に車が一台も走ってないぞ」
父親である田中は、感嘆の声を漏らした。
普段の家族旅行なら、駐車場から旅館へ向かう道すがらでも、「車が来るぞ!」と子供を怒鳴りつけなければならない。だが、ここではその必要が全くない。子供たちは歓声を上げながら、安全な回廊を全速力で駆け出していく。
「……いいか、若えの。あれがウチの最強の『ベースロード(安定収益源)』だ」
その光景を、はるか上空の司令室から見下ろしていた現場監督の高見が、コーヒーを啜りながらニヤリと笑った。
「車から降りた瞬間、あいつらは『ドライバー』という責任から解放され、ただの『歩く財布』になる。……ウチのインフラは、その財布の紐を物理的に断ち切るように設計されてるんだ」
高見の言葉通り、田中の心理には劇的な変化が起きていた。
普段、箱根に車で来れば、父親の頭の中には常に「帰りの山道の運転(渋滞と事故の恐怖)」がこびりついている。だが今、自分のカローラは地下5階のメガ・パーキングに完全にロックされている。ここから先は、広大なテーマパークも、巨大な大浴場も、宿泊するホテルも、すべてこの「安全な回廊」と「無料のトラム(新交通システム)」だけで繋がっているのだ。
「……もう、今日は絶対に車を出さないぞ」
田中は無意識のうちにそう決意し、目の前に現れた巨大なビアホールの看板に吸い寄せられていった。
「おーい、母さん! 俺、昼間っから生ビール特大飲んじゃうぞ! 運転はもう明日までねえからな!」
「もう、しょうがないわねぇ。じゃあ私と子供たちは、あそこのジャンボ・パフェ食べるわよ!」
チャリン、チャリン。
司令室の集計メーターが、凄まじい勢いで跳ね上がっていく。
ビール、パフェ、ゲームセンターのメダル、浮き輪のレンタル代、そして夕食の追加バイキング。
一つ一つは数百円、数千円の「小銭」だ。だが、数万人の大衆が「帰りの運転」という足枷を外され、極限までリラックスした状態で財布を開けば、それは巨大な濁流となって相鉄の金庫へと流れ込んでいく。
「……ふふふ。見事なものだな」
司令室の奥で、相鉄のドン・川島が葉巻の煙を吐き出しながら、低く笑った。
「彼らは、頭上のラウンジで成金どもが数百万のワインを空けて見栄を張り合い、やがて自ら砂場に突っ込んで借金まみれになっていることなど、何一つ知らない」
川島の視線が、モニターに映る大衆の無邪気な笑顔をなぞる。
「そして、自分たちの足元深く……地下数十メートルの密室で、この国の未来の利権が我々に売り飛ばされていることも、永遠に知ることはない」
大衆は無知だ。
この巨大な要塞が、どれほどえげつない計算と、狂気のようなインフラ技術で支えられているか。自分たちが、いかに精巧に造られた「搾取の箱庭」の上で踊らされているか、想像すらしていない。
だが、だからこそ――彼らは、この狂った独立国家の中で、最も幸せな勝者だった。
誰にも見下される恐怖に怯えることなく、誰かに寝首を掻かれる恐怖に怯えることもない。
ただ、家族と共に温かい温泉に浸かり、美味いビールを飲み、「箱根は最高だな」と心から笑い合える。
「……一番の幸せ者は、何も知らない愚かな者たち、か」
川島が、誰に言うでもなくポツリと呟いた。
「……ならば我々インフラ屋は、彼らが死ぬまでその『無知なる幸福』を守り抜き、その代償として、彼らのポケットから最後の一円まで小銭を吸い上げ続けるのみだ」
陽が落ち始めた第1層のペデストリアンデッキ。
煌びやかなネオンが灯り始め、巨大な温泉街は夜の稼働へとシームレスに移行していく。
悲劇も、陰謀も、死の匂いも一切存在しない。ただひたすらに平和で、幸福で、残酷なまでに完璧な「大衆の日常」が、今日も静かに、そして確実に相鉄の金庫を満たし続けていた。




