第15話 横浜の泥沼と、沈みゆく摩天楼
昭和42年(1967年)。
三崎のドームとウィング号の成功で、京急の業績はうなぎ登りだった。
だが、俺(五代)の表情は曇っていた。
横浜駅東口、三菱重工跡地の建設現場。
そこは、まるで戦場のような有様だった。
「……止まりません、専務!」
現場監督が泥だらけの顔で叫んだ。
「Cブロックのケーソン(基礎)が、想定以上に沈下しています! このままじゃビルが傾くぞ!」
『横浜のピサの斜塔』。
週刊誌にはそんな見出しが躍っていた。
みなとみらいの建設地は、元々が海を埋め立てた土地だ。地下数十メートルまでヘドロのような軟弱地盤が続いている。
そこに、当時としては常識外れの**「高さ200メートル、地上50階建て」**の超高層ビルを建てようというのだ。無理もない。
「……加賀谷。状況は?」
俺は、技術部長の加賀谷と共に、現場の司令塔にいた。
「最悪ですね」
加賀谷が図面を叩いた。
「ケーソン工法で人工岩盤を作っていますが、地中の水分量が多すぎて安定しない。……まるで豆腐の上にレンガを積んでいるようなもんです」
工期は遅れ、建設費は当初予算を大幅にオーバーしていた。
三崎のドームや魚介切符で稼いだ利益が、全てこの横浜の泥沼に飲み込まれていく。
「銀行団が騒ぎ始めています」
経理担当の谷口常務が青ざめて入ってきた。
「『このままでは融資を引き上げる』と……。五代くん、もう諦めて計画縮小しないか? 20階建てくらいにしておけば……」
「馬鹿を言うな!」
俺は一喝した。
「ここで妥協したら、ただの雑居ビルだ! 東京の霞が関ビルを見ろ、36階だぞ? ……横浜が東京に勝つには、圧倒的な高さが必要なんだ!」
俺はヘルメットを被り直した。
「加賀谷、ついてこい。……地下へ潜るぞ」
* * *
俺たちは、地下30メートルの**「潜函」**内部へと降りた。
そこは高気圧作業室。
地下水の浸入を防ぐため、高い気圧がかけられている。耳がキーンと痛む。
泥と汗の臭いが充満する、地獄のような空間だ。
「……ひでぇな」
足元の泥はスープ状だ。これでは杭が踏ん張れない。
「専務、見てください」
作業員の一人が、絶望的な顔で壁を指差した。
コンクリートの壁に、亀裂が入りかけている。
地盤の歪みに、基礎そのものが悲鳴を上げているのだ。
「……これ以上掘り進めるのは危険です。撤退しましょう」
加賀谷が言った。
「技術的に限界です。今の日本の土木技術じゃ、この豆腐地盤に摩天楼は建ちません」
俺は泥水を見つめた。
ここで諦めるか?
いや、ここで引けば、500億の借金だけが残り、京急は倒産する。
俺は、前世の記憶を必死に検索した。
軟弱地盤。液状化対策。……そうだ。
昭和の終わり頃に普及した、あの技術なら。
「……固めればいい」
「は?」
「土を、石に変えるんだ」
俺は加賀谷に振り返った。
「**『薬液注入工法』**だ」
「薬液……?」
加賀谷が怪訝な顔をした。当時はまだ実験的な技術で、コストが高すぎて誰も手を出さなかった工法だ。
「特殊な凝固剤(水ガラス系)を、地盤に直接注入する。……この泥全体を、化学反応でカチカチの岩に変えてしまうんだ」
「無茶苦茶だ! いくらかかると思ってるんですか!?」
加賀谷が叫んだ。
「この広大な敷地全体に薬液を打つなんて……ドームの利益が全部吹っ飛びますよ!」
「吹っ飛ばせばいい!」
俺は叫び返した。
「金はまた稼げばいい! だが、ここでビルが傾いたら、京急の信用はゼロになる! ……やるぞ、加賀谷。三崎で稼いだ金を、全部この泥にブチ込め!」
* * *
翌日から、現場の様子は一変した。
巨大なタンクローリーが何十台も列をなし、謎の液体を現場に運び込んでくる。
昼夜を問わず、ボーリングマシンが唸りを上げ、地中にパイプを突き刺していく。
『五代の狂気』。
社内ではそう囁かれた。
三崎のドームやウィング号が稼ぎ出す日銭が、右から左へと、この建設現場に消えていく。
経理の谷口常務は、毎日胃薬を飲んでいた。
だが、一ヶ月後。
変化が現れた。
「……止まりました」
現場監督が、震える声で報告した。
「Cブロックの沈下が止まりました! レーザー測定値、誤差ゼロ! ……地盤が、固まっています!」
地下のボーリングコア(サンプル)が届いた。
以前はドロドロのヘドロだったものが、まるでコンクリートのように硬化していた。
人工岩盤の完成だ。
「……やったな」
俺はプレハブで、泥だらけの加賀谷と顔を見合わせた。
「ええ。……本当にやりやがった。あんた、悪魔じゃなくて錬金術師ですよ」
加賀谷がヘルメットを脱ぎ捨てた。
「これで基礎は盤石です。あとは上に伸ばすだけだ」
俺は窓の外を見た。
クレーンのアームが、天に向かって伸びている。
一番困難な「地下」の戦いは終わった。
だが、安心するのはまだ早い。
「……ビルは建つ。だが加賀谷、問題は『中身』だ」
俺は、作りかけの鉄骨を見上げた。
「高さ200メートル、延べ床面積39万平方メートル。……このバカでかい箱を、誰が埋めるんだ?」
当時の横浜は、まだ東京のベッドタウンに過ぎない。
丸の内の企業が、わざわざ横浜までオフィスを移すだろうか?
もしテナントが入らなければ、今度こそ京急は「日本一高い廃墟」のオーナーになってしまう。
「次は営業戦争だ。……東京の財閥系企業を、根こそぎ引っこ抜いてくるぞ」




