第147話 『開門:地下の静寂と、権力を運ぶ歯車(アプト式)』
昭和54年、春。
箱根山頂の『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。第1層では数万人の大衆が歓声を上げ、第2層では見栄に狂った成金が自爆用の砂場に突っ込んでいたその頃。
表世界の喧騒が1デシベルたりとも届かない、箱根の地下数十メートルの深い岩盤の中では、極秘の「もう一つの開門」が静かに、そして厳かに行われようとしていた。
箱根の麓、小田原市街から少し外れた鬱蒼とした森の中。
地図上では「相鉄・第三変電所(立入禁止)」とだけ記された無機質なコンクリートのゲートの前に、音もなく3台の車列が滑り込んできた。
すべて、漆黒の塗装が施された日産・プレジデント。だが、そのナンバープレートは偽装され、窓ガラスは分厚い防弾仕様のフルスモーク。中を伺い知ることは絶対に不可能だった。
ゲートの前に立つのは、相鉄の制服ではなく、一切の身分証を持たない黒服の男たちだ。
彼らは無言でゲートを開け放つ。漆黒のプレジデントは、アイドリング音すら立てずに、暗く冷たい地下トンネルへと吸い込まれていった。
「……第1閉塞、クリア。対象(VIP)の積載を開始する」
地下トンネルの奥深く。そこには、現場監督の高見が箱根の硬い岩盤をダイナマイトで粉砕し、血を吐く思いで敷設した『アプト式軌道』の始発ターミナルが広がっていた。
プレジデントの群れは、自らのエンジンで山を登ることはしない。
ターミナルに待機していた、巨大な「車載用・専用貨車」の上へ、寸分の狂いもなく自走して乗り上げる。
すぐさま、待機していた保線作業員たちが、プレジデントの4つのタイヤを極太のチタン製チェーンで貨車に完全に固定した。
「……よし。固定完了。これより対象を『第3層』へと押し上げる」
高見が無線で指示を飛ばす。
ガコンッ……!!
貨車の最後尾に連結された、相鉄が誇る数千馬力の「巨大電気機関車」の駆動歯車が、軌道の中央に敷かれた3列のラックレール(鋼鉄の歯)に、ピタリと噛み合った。
これこそが、川島社長が本物の権力者(VIP)のためだけに用意した、完全なる移動手段。
表の山道は、霧が出れば通行止めになり、成金が事故を起こせば渋滞する。一般人の目に触れるリスクもあれば、テロや襲撃のリスクもある。
だが、この地下数十メートルの岩盤に守られた「アプト式の専用軌道」ならば、天候にも、地上の事故にも一切影響されない。信号機も対向車もなく、ただ1ミリの狂いもなく、定刻通りに山頂の『絶対聖域(第3層)』へと到達できるのだ。
「……出発(出発)進行」
キィィィィン……というモーターの低い唸り声と共に、巨大な電気機関車が、プレジデントを載せた貨車ごと、急勾配のトンネルを力強く登り始めた。
ガシャッ、ガシャッ、という鋼鉄の歯車が噛み合う重厚な音だけが、地下空間に響き渡る。
一方、貨車に固定されたプレジデントの車内。
後部座席に深く腰掛けていたのは、日本の国家予算を左右する政界のドンと、メガバンクの頭取だった。彼らにとって、車とは「見せびらかすための玩具」ではない。盗聴器も、狙撃手の銃弾も届かない『完璧な動く密室』であった。
「……驚いたな。これほどの急勾配を登っているというのに、車内は揺れ一つないし、ワインの液面すら波立たない」
頭取が、グラスを傾けながら感嘆の声を漏らす。
「エンジンを切り、タイヤを固定されているからこそ、車特有の微振動すら存在しない。……川島という男は、我々が『移動』ではなく『完全なる静寂』を求めていることをよく理解している」
政界のドンは、分厚い書類から目を離すことなく頷いた。
「上の階層では、大衆が温泉で騒ぎ、成金どもが車の自慢話で時間を潰していると聞く。……くだらん。車などただの鉄の箱だ。だが、この『100%安全で、誰の目にも触れない鉄の箱』を用意できるのであれば、相鉄にこの国のインフラ整備の利権を一つ回してやってもいい」
彼らは外の景色など一切見ない。
ただ、この15分間の絶対的な静寂の中で、数千億円規模の国家プロジェクトの密約を交わしていく。彼らにとって、箱根の山を登るこの「アプト式の密室」こそが、国会や高級料亭よりも安全な「真の会議室」だったのだ。
やがて、鋼鉄の歯車の音がゆっくりと静まり、車載貨車は箱根山頂の最深部――地図にも載っていない、手付かずの原生林に囲まれた地下ターミナルへと滑り込んだ。
「……お着きになりました」
地下ターミナルのプラットホーム。
そこには、相鉄のドン・川島が、側近たちを従えて静かに立っていた。
ロックが解除され、プレジデントの重厚なドアが開く。
表世界の狂乱など一欠片も存在しない、ただ圧倒的な権力と静寂だけが支配する第3層『迎賓館』。
「……ようこそ、箱根の『裏側』へ。先生方」
川島が深く一礼する。
大衆の金、成金の見栄、そして……国家権力の密約。
箱根の山頂に築かれた完全独立国家は、いよいよその「真の心臓部」に血を巡らせ始めた――。




