第145話 『開門:箱根の大黒ふ頭と、見栄のショールーム』
昭和54年、春。
箱根山頂に完成した『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。地下のメガ・パーキングが5000台の一般車を飲み込み、第1層の巨大温泉テーマパークが大衆の熱気で沸き返る中、その喧騒から一段高い岩盤の上に隔離された第2層『VIP専用ゲート』は、異様なエキゾーストノートに包まれていた。
真っ赤なランボルギーニ・カウンタック、純白のポルシェ911ターボ。
高度経済成長の恩恵を全身で浴びた「成金」たちが、自らの成功の証をこれ見よがしに轟かせながら、続々と山頂へ乗り込んでくる。彼らにとって、数千万円のスーパーカーは単なる移動手段ではない。自らの「力」を誇示するための王衣であり、絶対に他人に触らせたくない聖域だった。
キィィィィンッ!
先頭の赤いカウンタックが、乱暴なブレーキングと共にゲート前に停止した。跳ね上がるシザーズドアから降りてきたのは、派手な柄のスーツを着た青年実業家風の男だ。助手席には、毛皮のコートを着た女を侍らせている。
「……ようこそ、『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』へ。お待ちしておりました」
燕尾服を着こなした相鉄のコンシェルジュが、完璧な笑顔で最敬礼をしながら近づく。
「お客様の素晴らしいお車は、私どもが責任を持ってお預かりいたします」
「はぁ? 冗談じゃねえ」
男は鼻で笑い、車の鍵をポケットにねじ込んだ。
「俺は他人にハンドルを握らせる趣味はねえんだよ。駐車場なら自分で停める。それに、夜になったらこいつで芦ノ湖の周りをドライブする予定だからな」
司令室のモニター越しにそれを見ていた若手社員が、息を呑む。
「た、高見さん……やっぱり鍵を預けませんよ! あの調子で夜に酒でも飲んで峠に出られたら、事故の火種になります!」
「……慌てるな、若えの。あいつらに『規則』なんて通用しねえのは百も承知だ。……だから、ウチは『駐車場』なんか用意してねえんだよ」
現場監督の高見がニヤリと笑うと同時に、モニターの中のコンシェルジュが、大仰な身振りで背後の巨大な建造物を指し示した。
「……かしこまりました。駐車場でよろしければ、裏手の暗い地下ガレージへご案内いたします。……ですが、あちらの【世界の名車コレクション】に、お客様のお車を展示できないのは、少々残念でございますね」
「……展示?」
男が振り返った先。
そこにあったのは、第1層の温泉テーマパークへ向かうメイン通路に沿って建てられた、全長100メートルを超えるガラス張りの巨大ショールームだった。
ガラスの向こう側(大衆の通路)では、すでに展示されたフェラーリやマセラティを前に、大勢の家族連れや若者たちが黒山の人だかりを作っていた。
『すげえ! 本物のスーパーカーだ!』
『パパ、写真撮って! 一緒に撮って!』
分厚いガラス越しに向けられる、数千人の羨望の眼差し。瞬くカメラのフラッシュの嵐。
そこはまさに、車好きが見栄を張り合う聖地・大黒ふ頭パーキングエリアの熱気を、相鉄がシステマチックに山頂へ持ち込んだ「究極の熱狂空間」だった。
「……なっ!?」
男の顔つきが、劇的に変わった。
隣にいる女が、男の腕を引いて黄色い声を上げる。
「ねえ凄い! あなたの車も、あんな風に皆に見てもらえるの!?」
「……っ、ま、まあ! そういうことなら仕方ないな!」
男は、先ほどの「自分で停める」という怒りなど完全に忘れ去り、鼻高々に笑いながら自ら車の鍵を取り出した。
「大衆に本物の車の美しさを教えてやるのも、ノブレス・オブリージュってやつだからな! ほら、鍵だ! 傷一つ付けるなよ。一番目立つ、ど真ん中に飾っておけ!」
ガチャリ。男が気前よく、コンシェルジュの手のひらに鍵を叩きつけた。
自尊心をくすぐられた成金たちは、次々と自ら進んで愛車をガラスケースの中へと封印していく。
「……フッ。チョロいもんだ」
司令室で見ていた川島社長が、獰猛な笑みを浮かべた。
「大衆からの『羨望』という麻薬をチラつかせれば、成金どもは喜んで自ら移動手段を手放す。……これで奴らは、ウチの敷地から一歩も出られねえ」
鍵を預けた男たちは、高見が泥水啜って敷き詰めた『自動運転のVIP専用カート』に案内され、王様気取りで第2層のプレミアム・ラウンジへと吸い込まれていく。
そこは、先ほど男が自分の車を預けたガラス張りのショールームと、それに群がる下界の大衆を、はるか上から見下ろすことができる「特等席」だった。
「……美味いな。下界の連中が、俺の車を拝んでやがる」
男は最高級のベルベットのソファに深く腰掛け、1本100万円のロマネコンティのグラスを傾けた。大衆に見せびらかし、彼らを見下ろしながら飲む酒。これ以上の美酒は、この世に存在しない。
だが、この絶対的な優越感が、夜が更けるにつれて彼らのプライドを肥大化させ、やがて最悪の「暴走」を引き起こす起爆剤となることを、この時の彼らはまだ知らなかった。




