第14話 通勤地獄の黙示録と、200円の聖域(ウィング号)
昭和41年、冬。
三崎のマリン・ドームは大成功を収め、「三浦魚介切符」もバカ売れしている。
だが、京急にはまだ解決していない、最大の闇があった。
平日朝の、殺人的な通勤ラッシュだ。
午前7時30分。上大岡駅。
ホームは、黒いコートを着たサラリーマンの群れで埋め尽くされていた。
高度経済成長の真っ只中。沿線のベッドタウン化(能見台や金沢文庫の住宅開発)が爆発的に進み、輸送需要が供給を遥かに上回っていたのだ。
「押し込みます! ドアから離れて!」
**『押し屋』**たちが、背中から客をギュウギュウと車内に押し込む。
悲鳴、怒号、そして諦めの溜息。
乗車率は250%。肋骨が軋む音が聞こえてきそうだ。
視察に来ていた俺(五代)は、ホームの端で眉をひそめた。
「……酷いな。これじゃあ、会社に着く前に体力を使い果たしてしまう」
隣にいた運行管理の大崎も、疲れた顔をしている。
「限界です、専務。金沢文庫から12両編成を限界まで投入していますが、焼け石に水です。……これ以上増発したら、前の電車に追突します」
「物理的な輸送量は限界か」
俺は、押し込まれていくサラリーマンの死んだような目を見た。
彼らは日本の経済を支える戦士だ。なのに、家畜のように運ばれている。
「なら、発想を変えよう」
俺は言った。
「全員を運ぶのは義務だ。だが、**『人間らしく運びたい』**というニーズもあるはずだ」
* * *
数日後、役員会議。
俺は一枚のポスター案を提示した。
【朝の着席保証列車『モーニング・ウィング号』デビュー】
・必ず座れます。
・ゆったりクロスシート(2000形使用)。
・別途、着席整理券(200円)が必要です。
「有料の通勤電車だと!?」
営業担当の常務が猛反対した。
「五代くん、鉄道は公共交通機関だぞ! 金持ちだけ優遇するのか! 『差別だ』と苦情が殺到するぞ!」
「それに、そんな定員の少ない電車(座席定員制)を走らせたら、ホームに積み残しが出る! ラッシュ時に輸送力を落としてどうする!」
正論だ。当時の常識では、通勤電車はいかに「詰め込むか」が正義だった。
国鉄にグリーン車はあるが、私鉄の通勤電車で別途料金を取るなんて、しかも「座るためだけ」に金を払わせるなんて、前代未聞だった。
「差別ではありません。**『選択肢』**です」
俺は静かに反論した。
「常務、今のサラリーマンを見てください。毎日片道1時間、地獄の痛みに耐えている。……もし、200円(当時のラーメン一杯分くらい)で、その痛みが消えるとしたら? 40分の睡眠時間が買えるとしたら?」
俺は、未来の記憶を思い出した。
平成・令和の時代、私鉄各社はこぞって「座れる通勤列車」を導入し、満席が続出した。
日本人は、「快適さ」になら金を払うのだ。
「それに、このウィング号は、ラッシュのピーク(8時台)の前、6時〜7時台に走らせます。……これなら、『座りたいから少し早起きする』という時差通勤も誘導できる」
大原社長が腕を組んだ。
「……200円か。毎日だとバカにならんぞ。本当に売れるのか?」
「売れます。……彼らは『企業戦士』です。戦場へ行く前の休息には、金を惜しみませんよ」
* * *
昭和41年4月。
日本初の通勤ライナー**『モーニング・ウィング号』**の運行が始まった。
初日の朝。三崎口駅。
1番線には、2ドア・クロスシートの**2000形(8両編成)**が止まっている。
普段なら通勤客で殺気立っているホームだが、この電車の前だけは空気が違った。
入口には専任の駅員が立ち、チケット(ウィング・チケット)を確認している。
「おはようございます。どうぞ、お座りください」
選ばれし乗客たちが、優雅に車内へ入っていく。
車内は静寂そのもの。
全員が進行方向を向いて座り、新聞を広げたり、目を閉じて仮眠を取ったりしている。
「……快適だ」
ある課長風の男性が、リクライニングこそしないものの、ふかふかのシートに身を沈めて呟いた。
「毎朝、肋骨が折れそうな思いをしていたのが嘘みたいだ……。これで200円なら安いもんだ」
発車ベルが鳴る。
ウィング号は、満員の通勤電車を待つ長蛇の列を横目に、滑るように発車した。
途中駅の横須賀中央、金沢文庫、上大岡。
ホームには溢れんばかりの人がいるが、ウィング号のドアは乗車用には開かない。
**「遠距離通勤者(三浦・横須賀民)」**を救済するための、ノンストップ運転だ。
車窓の外では、並走する国鉄横須賀線の満員電車(113系)が見える。窓ガラスに顔が押し付けられている地獄絵図だ。
それに対し、こちらの車内は天国。缶コーヒーを飲みながら日経新聞を読める。
品川駅到着。
降りてきた客たちの顔色は、明らかに良かった。
「行ってきます」
彼らは背筋を伸ばし、戦場へと向かっていく。
* * *
その夜。京急本社。
営業部には、問い合わせの電話が殺到していた。
「苦情か?」
常務が青ざめて聞いた。
「いえ……。**『チケットが買えない!』**という悲鳴です」
部下が興奮気味に報告した。
「本日分のチケットは発売開始5分で完売。来月分の定期券タイプ(ウィング・パス)も、争奪戦になっています。『もっと本数を増やせ』『帰りのイブニング・ウィングも作ってくれ』との要望ばかりです」
「……勝ったな」
俺は社長室でコーヒーを飲んだ。
この時代、まだ「働き方改革」なんて言葉はない。
だからこそ、モーレツ社員たちは「金で買える休息」に飛びついたのだ。
「社長。ウィング号は単なる増収策じゃありません。**『京急沿線に住めば、座って通勤できる』**という最強のブランド広告になります」
「うむ……。沿線のマンション価格も上がるだろうな」
大原社長は、満足げに頷いた。
「五代。お前の言う通りだ。……人間は、パン(輸送)だけでなく、薔薇(快適さ)も求めているんだな」
「ええ。これで、三浦半島の価値はさらに上がります」
俺は窓の外、品川の夜景を見下ろした。
三崎のドーム、まぐろグルメ、そして通勤ライナー。
これらは全て繋がっている。
「住んでよし、遊んでよし、働いてよし」。
京急沿線が、単なる田舎から「選ばれる街」へと変貌を遂げた瞬間だった。
「さて、足場は固まりましたね」
俺は手帳を開いた。
そこには、次の計画が記されている。
これまでは「既存の線路」の上での改革だった。
だが、大京急帝国の野望は、今の路線図だけでは収まらない。
「社長。……そろそろ、本丸のビルの進捗を見に行きましょうか」
500億を投じた巨大プロジェクト。
あれが完成すれば、京急は鉄道会社の枠を超えた「財閥」になる。
日常の改革は終わった。
次はいよいよ、会社の形そのものを変える、巨大開発の仕上げだ。




