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第138話 『県庁の壁:公共の福祉とは何か?』

 神奈川県庁。土木計画課・特別会議室。

 分厚いファイルがめくられる乾いた音だけが、静まり返った室内に響いていた。

 長机の奥に座る県庁の担当官は、広げられた『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』の巨大な青図を前に、鋭い視線を這わせていた。

 図面を提出した相鉄の若手社員は、極度の緊張で額に汗を浮かべている。その後ろには、ヘルメットを小脇に抱えた高見と、葉巻の火を消して静かに座る相鉄のドン・川島が控えていた。

「……アプト式装甲トラクターによる、急勾配の裏物流網。地形ごと削り出した完全な歩車分離。さらに、承認欲求を利用したエキシビション・フロントによる、飲酒運転の合法的封殺……」

 担当官は図面から顔を上げ、高見と川島を見た。

「……驚きました。正直に申し上げれば、インフラの物理と人間の心理をここまで完璧に制御した開発計画は、見たことがありません。渋滞も事故も起きない。技術的な安全性において、この図面に隙は1ミリも存在しない」

 若手社員の顔がパッと明るくなる。

 いける。あの頭の硬い役人が、インフラの完璧さを認めた。このまま開発許可のハンコがもらえる……!

「ですが」

 担当官の声が、氷のように冷たく響いた。

 彼は図面の上にペンを置き、川島を真っ直ぐに睨みつけた。

「……私は、この計画にハンコを押すわけにはいきません。開発許可は『却下』です」

「なっ……! なぜですか!?」

 若手が思わず立ち上がる。

「事故も渋滞も完全に防げるインフラ網です! 小田急の計画よりも遥かに安全で、画期的な……!」

「技術の話をしているのではありません。私が問うているのは、この計画の『根源的な思想』です」

 担当官は、図面に描かれた「成金用の豪華ラウンジ」や、森の最深部に隠された「VIP専用迎賓館」をペン先で叩いた。

「……川島社長。あなたがこの箱根の山頂に創ろうとしているのは、要するに『一部の金持ちを囲い込んで、莫大な金を落とさせる巨大なカジノ(会員制クラブ)』でしょう」

 痛いところを突かれ、若手が息を呑む。

 担当官は厳格な声で言い放った。

「我々行政が、自然保護の観点からも厳しい箱根の山頂に開発許可を下ろす最大の根拠……それは【公共の福祉】です。この国の大衆みんなが、等しく恩恵を受けられるかどうか。それがすべてです」

 担当官の言葉は、行政としての絶対的な正義(正論)だった。

「一部の特権階級だけを優遇し、金持ちの見栄を満たすだけの閉鎖的なパチンコ屋に、箱根の山頂という『公共の財産』を明け渡すことは絶対に許されない。……お引き取りください」

 会議室に、絶望的な沈黙が落ちた。

 どんなにインフラの技術が優れていても、この「公共性」という大義名分がなければ、行政の壁は決して越えられない。若手社員は完全に言葉を失い、膝から崩れ落ちそうになった。

 だが。

「……ククッ」

 静まり返った部屋に、低い笑い声が響いた。

 高見だった。彼は土に汚れた作業着のまま、呆れたように首を振っていた。

「……お役人さんよ。あんた、図面を見る目はあっても、『ビジネス』を見る目はからっきしだな」

「なんだと……?」

 担当官が眉をひそめる中、川島がゆっくりと立ち上がった。

 横浜のドンは、新しい葉巻を取り出しながら、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。

「……大衆への恩恵がねえ、だ? ふざけるなよ」

 川島は図面の一番下――巨大温泉テーマパークと大食堂が描かれた『第1層』を、太い指でバンッ!と叩いた。

「ウチらインフラ屋が、名もなき大衆みんなを蔑ろにするわけがねえだろうが。……このリゾートの真の主役は、金持ちじゃねえ。『普通の家族連れ』だ」

「どういう意味です。これだけ豪華なVIP施設を造っておきながら……」

「……だから、その金持ち(VIP)どもは、大衆を安く遊ばせるための『ただの集金装置パトロン』だって言ってんだよ」

 川島の言葉に、担当官の目が大きく見開かれた。

「……一部の金持ちしか使わないパチンコ屋じゃねえ。日本中の大衆を笑顔にするために、金持ちに喜んでパトロンになってもらう街だ。……インフラ屋が仕掛ける、究極の『錬金術』を教えてやる」

 行政の「正論」に対し、インフラ屋の「大義名分」が牙を剥く。

 箱根の山頂を巡る最終プレゼンが、今、最大のクライマックスを迎えようとしていた。

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