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第133話 箱根は相鉄だ:横浜のドンと、荒野の大錬金術

 昭和52年(1977年)、夏。

 箱根山頂。芦ノ湖を見下ろす広大な未開の荒野を、湿った強風が吹き抜けていた。

 ススキが波打つその場所に停められた、漆黒のプレジデント。そのボンネットに広げられた大判の青図(図面)を、相鉄・不動産部門の若手社員が必死に押さえていた。

「……川島社長。ついに我々は、この箱根山頂にこれだけのまとまった土地を確保しました」

 若手の声には、大仕事を成し遂げた高揚感があった。

「ご覧ください。入り口に5000台を飲み込む巨大な平面駐車場を配し、奥には小田急のホテル群を凌駕する大型ホテルを建設します。これで箱根の覇権は……」

 相鉄のドン・川島は、図面に目を落とすこともなく、ただ分厚い葉巻の煙を風に流していた。

 その後ろでは、作業着姿の高見が腕を組み、京急の五代がステッキに両手を重ねて黙って下界を見下ろしている。

「……おい」

 川島が短くなった葉巻を携帯灰皿に押し付け、低く掠れた声で言った。

「その図面、丸めてトランクに放り込んどけ」

「え……?」

「小田急の真似事をして、デカい箱を作って客を詰め込む。……そんなありきたりな商売をするために、俺がわざわざ横浜から山を登ってきたとでも思ってんのか」

 川島はプレジデントのボンネットから青図を払いのけると、自らの手で白紙を広げ、万年筆で三つの階層を示す線を引いた。

「いいか。ウチがこの荒野に創るのは、ただのホテルじゃない。人間の『業』を完全に分離し、そこから金と権力を吸い上げる巨大な装置だ」

 川島は一番下の層をペン先で叩く。

「まず底辺。『名もなき大衆』だ。ここには箱根の湯を限界まで使った全天候型の温泉施設と、巨大な食堂を置く。安売りはしないが、払った額以上の圧倒的な体験を叩き返す。家族連れや団体客の活気、それがこのリゾートの基礎体温になる」

 ペン先が真ん中の層へ移動する。

「次だ。承認欲求を持て余した『成金ども』。こいつらにはカジノ風のラウンジや、高級車を見せびらかすエントランスを用意する。大衆とは動線を分け、特権階級の夢を見させる。……こいつらは、大衆施設を適正価格で維持・成長させるための『巨大な集金箱』だ。ここでバカ高い酒を開けさせ、利益を下に循環させる」

 そして川島は、一番上の層――図面の端の、深い森のエリアを丸で囲んだ。

「最後だ。……成金の喧騒から完全に隔離された、地図に載らない森の最深部。ここには、日本の裏面を動かす『真のVIP』だけを招き入れる迎賓館を置く。目立つことを嫌う政財界のトップに、誰にも干渉されない密約の場を提供する。……相鉄という企業が、国家レベルの『影響力』を手に入れるための場所だ」

 大衆の活気。成金の金。VIPの権力。

 三つの階層をひとつの山頂に集約させ、富を循環させる自己完結型の都市。

 それはもはやリゾート開発ではなく、ひとつの「独立国家」を創るという途方もない野望だった。

「……しゃ、社長。ビジネスの理想としては完璧かもしれませんが……」

 若手社員は、血の気の引いた顔で荒野を見渡した。

「物理的に不可能です。大衆のマイカー、成金のスーパーカー、VIPの黒塗り、そして大量の物流トラック。これらが一本の山道から入り乱れれば、致命的な大渋滞と事故が起きます。VIPが家族連れの車の後ろでクラクションを鳴らすような事態になれば、すべてが破綻する」

 若手は絶望的な声で締めくくった。

「動線が分けられません。それに、安全性の担保もない。県庁がこんな計画に、開発許可のハンコを押すわけがない……!」

 風が凪いだ。

 若手の言葉は、都市開発における残酷な物理の壁だった。

「……おい若えの。頭でっかちはそこまでにしておけ」

 重い安全靴の音を響かせ、高見が一歩前に出た。土と鉄の匂いが漂う。

「その『絶対に不可能』な物理の壁を、コンクリートと鉄筋でブチ破るのが、俺たち現場の仕事だろうが」

 高見が作業着のポケットから使い古した野帳を取り出す。

 その隣で、五代がステッキを軽く岩肌に鳴らし、冷たい笑みを浮かべた。

「階層の分離。完璧な安全。渋滞の排除。……すべて、ウチの制御網と、相鉄の土木で物理的に実現してみせるさ」

 川島が新しい葉巻を取り出し、ゆっくりと火をつける。

「……見とけよ小田急。これから先、箱根は相鉄だ」

 芦ノ湖を見下ろす荒野。

 不可能を可能にする、インフラ屋たちの静かで泥臭い闘いが、今始まった。

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