第130話 敗戦処理:空っぽの湯本駅と、悲鳴を上げるガイドウェイ
昭和52年(1977年)、春。
京急と相鉄が放った『アプト式・頂上快特』の運行開始から、一週間が経過した週末。
小田急の役員たちは、視察と称して「箱根湯本駅」のホームに降り立っていた。
彼らの表情には、まだどこか余裕が残っていた。
「……ふん。連中の赤いバスが少しばかり話題になっているようだが、所詮は『目新しいだけの遊園地の乗り物』だ」
「その通りです。箱根の玄関口であるこの湯本駅は、古くから登山電車への『乗り換え客』でごった返すドル箱。客足が少し減ったところで、我々の屋台骨が揺らぐことなど……」
役員が言いかけて、ハッと息を呑んだ。
ホームの景色が、明らかにおかしかったのだ。
春の行楽シーズンの週末。本来なら、新宿からの特急ロマンスカーから吐き出された客が、強羅行きの箱根登山鉄道へ乗り換えるために、ホームから溢れんばかりの長蛇の列を作っているはずの時間帯。
だが、目の前のホームには……人が、数えるほどしかいなかった。
「な、なんだこれは……!? 客はどこへ行った!?」
血相を変えた役員に、湯本駅の駅長が青ざめた顔で報告書を差し出した。
「……ほ、本日の登山電車の乗車率、例年の3割を切っております……。特に、大きな荷物を持った家族連れや、ご高齢の団体客の姿が『完全に』消えました……」
「3割だと!? 7割の客が消滅したというのか! 馬鹿な、連中のバスにそんな輸送力があるはずが……!」
役員は理解していなかった。
京急の放った『18メートルの連結バス』と『二階建てバス』が、小田原駅から客を丸呑みにし、湯本駅(谷間)を遥か頭上の専用高架で飛び越え、そのまま箱根山頂のホテル群へ直接客をバラ撒いているという、**【乗り換えゼロ(ドア・ツー・ドア)】**の恐ろしさを。
荷物を持って階段を上り下りする「乗り換え」という行為は、客にとって最大のストレスだ。そのストレスを完全に排除した京急のネットワークの前に、小田急の「点と線の鉄道網」は、わずか一週間で完全に陳腐化してしまったのである。
閑古鳥が鳴く、空っぽの湯本駅。
小田急の役員たちは、自分たちの足元が音を立てて崩れ落ちる音を、ついに物理的な「数字(売上)」として突きつけられ、その場に力なくへたり込んだ。
***
一方、その頃。
小田原駅前の相鉄・京急合同ターミナルは、全く別の意味で【地獄】と化していた。
「……おい! 3番プラットフォーム、次のバスまだか!? 客が溢れ出して階段まで列ができてるぞ!!」
「無茶言うな! 今、1号車が山から下りてきてアプトの歯車をしまってるとこだ! モード切り替えにあと40秒待て!!」
ターミナルビルの裏側では、作業着を油まみれにした京急の整備士たちと運転手たちが、怒号を飛び交わせながら走り回っていた。
頂上快特の大ヒットは、五代たちの予想すら遥かに超えていた。
「……ハァ、ハァ……! 五代常務! 初日でこの乗客数は異常です! アプト式のラックピニオン(歯車)の出し入れ、1台につき1日何十回もやってたら、油圧ポンプが焼き付きますよ!!」
整備班長が、煤けた顔で五代に噛み付く。
「弱音を吐くな。予備のポンプとグリスは山ほど用意してある。夜間のメンテで徹底的に油を差せ」
五代はステッキで図面を叩きながら、ニヤリと笑った。
「……それで? 心配していた『150パーミルの急勾配』での、客の転落トラブルはどうだった?」
その問いに、整備班長は汚れた顔を一気にほころばせた。
「……それが、完璧なんですよ! 常務の言った通り、あの『深い固定シート』と『チクチクのモケット生地』のおかげで、下り坂で急ブレーキを踏んでも、客のケツが1ミリも前に滑らねえんです! 床下に余計なカラクリ(可変ギミック)なんか積まなくて大正解でした。やっぱりインフラは『KISSの法則』が一番ですね!!」
「だろう?」
五代の横で、高見がタバコの煙を天井に向けて吐き出した。
「……下界じゃ、小田急のボンボンどもが空っぽの駅を見て泣いてる頃だ。だが、勝った俺たちには、この『バケモノみたいなインフラ』を1秒の遅れもなく回し続けるっていう、もっと過酷な戦いが待ってる」
高見は窓の外、絶え間なくターミナルを出入りする真っ赤なバスの群れを見下ろした。
「……行くぜ五代。ここからが、本当の『泥臭いインフラ屋の仕事』だ」




