第128話 運用編:公道に放たれる路線バスの群れ
昭和52年(1977年)、冬。
早川を跨ぎ、箱根の急斜面を時速30キロで一直線に登り切った『アプト式・専用軌道』。
その軌道の終点は、箱根の山頂エリア……比較的平坦な地形が広がる「仙石原」や「芦ノ湖畔」へと通じる、県道の合流地点に設定されていた。
専用軌道を登り切った『頂上快特(赤いバス)』の運転席で、運転手はパネルのスイッチを「カチン」と切り替えた。
プシュゥゥゥ……ッ!
車体下部で空気が抜ける音と共に、これまで軌道の壁を挟み込んでいた「案内輪」と、急勾配を噛み砕いていた「アプトの歯車」が、静かに車体の腹の中へと収納されていく。
「……よし。ガイド収納完了。モード切り替え、一般路線へ」
運転手がハンドルを握り直す。
これまで「レールに導かれる鉄道」として崖を登ってきた車体は、その瞬間から、自らのタイヤでアスファルトを蹴る**『ただの路線バス』**へと姿を変えた。
ウィンカーを点滅させ、赤いバスは専用軌道のゲートを抜け、箱根の一般公道へとスムーズに合流していく。
***
「……ここからが、ガイドウェイバス最大の武器だ」
小田原ターミナルで図面を見下ろしながら、五代はステッキで箱根全域の地図を円を描くようになぞった。
「小田急の箱根ルートは『点と線』の鉄道網だ。箱根湯本で登山電車に乗り換え、強羅でケーブルカーに乗り換え、早雲山でロープウェイに乗り換える。……客は重い荷物を引きずりながら、休日の大混雑の中で何度も何度も『乗り換え地獄』を強いられる」
五代の言葉に、高見も頷きながらタバコの煙を吐き出した。
「だが、ウチのバスは違う。渋滞する一番キツい谷間だけを『専用軌道』で一気に飛び越え、山頂の平地に着いた瞬間、歯車をしまって『公道』に降りる」
五代は地図上の「芦ノ湖」「仙石原」「強羅」といった各観光地に、次々と赤いピンを刺していった。
「……公道に降りたバスは、そこから『芦ノ湖行き』『仙石原行き』として四方八方に散らばっていく。そして、客を旅館やホテルのエントランスに横付けして、直接降ろすんだ」
それこそが、既存の鉄道には絶対に真似のできない、完全無欠の交通ネットワークだった。
「小田急の客が、湯本の駅でひいひい言いながら階段を上り下りしている間に……ウチの『頂上快特』に乗った客は、小田原駅から一度も立ち上がることなく、深いシートでくつろいだまま、箱根のホテルのロビーに到着しているってわけだ」
高見がニヤリと凶悪な笑みを浮かべる。
「……乗り換えゼロの、ドア・ツー・ドア輸送。これこそが、小田急の鉄道網を完全に過去の遺物にする『面の制圧』だ」
***
同刻、小田急の役員室。
京急が発表した「山頂からの公道乗り入れ(路線バス化)」の全貌を知った役員たちの手から、ついにワイングラスが滑り落ちた。
ガチャン、と鈍い音が室内に響く。
「……ば、馬鹿な……。専用軌道から、そのままホテルの玄関まで直行するだと……?」
「乗り換えがない……? そんなことをされれば、荷物の多い家族連れや老人客は、全員ヤツらのバスに流れてしまうぞ……!!」
彼らが絶対の自信を持っていた「登山鉄道網」は、山を直登し、最後は無数の路線バスとなって箱根中へと散らばっていく京急の『赤い群れ』の前に、完全に包囲されようとしていた。
箱根の覇権が、音を立てて崩れ落ちる瞬間だった。




