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第127話 時速30キロの『快特』と、下り坂の絶対安全

 昭和52年(1977年)、冬。

 送り出し工法で早川を跨ぎ、そこから箱根の斜面を「一直線」に駆け登るアプト式の専用軌道。

 その全貌を知った小田急陣営だったが、彼らはすぐに鉄道屋としての「常識」を取り戻し、再び余裕の笑みを浮かべていた。

「……五代のヤツめ、脅かしおって。だが、所詮は素人の浅知恵だ」

 小田急の役員が、ふんぞり返って葉巻を吹かす。

「いいか? アプト式の歯車というのは、急勾配を登れる代わりに『致命的に遅い』んだ。安全上の限界はせいぜい時速30キロ。……あんな自転車に毛が生えたような速度で、何が『快特(快速特急)』だ! 結局、ウチの登山鉄道の方が速いに決まっている!」

 ***

 一方、小田原の相鉄・京急合同ターミナル。

 完成間近の車両模型を前に、五代と高見は小田急のその嘲笑を完全に予期していた。

「……小田急の連中は『時速30キロじゃ遅い』と笑っているようだな」

 高見がタバコを灰皿に押し付ける。五代はステッキを片手に、フッと冷たく笑った。

「鉄道の『最高速度』しか見えていない、古い頭の連中らしい発想です。……いいですか? ウチのバスは『時速30キロ』で、スイッチバックもカーブの減速もなく、山頂まで【最短の直線距離】を止まらずに突き進むんです」

 五代は図面の上にコマを置いた。

「ジグザグに山を這い回り、単線ですれ違い待ちをする登山電車。そして、大渋滞で【時速0キロ】で止まったままのマイカー。……それらと比べれば、確実にダイヤ通りに進み続ける時速30キロは、トータルで見れば圧倒的に『最速(快特)』なんですよ」

「おまけに、これだ」

 高見が、車両の車内図面を指差す。そこには、複雑なカラクリなど一切ない、高速バスと同じ『深型の固定シート』が並んでいた。

「……急坂で客が転げ落ちないように、床下に油圧のカラクリでも仕込むのか? バカ言え。そんなもん重くなるだけで、アプトの歯車が砕けちまう。……座席は『高速路線バス』と同じだ。ケツが深く沈むシートに、滑らないモケット生地。そして急勾配区間に入る前に『シートベルト』を締めさせる。それだけで十分だ。アナログを舐めるなよ」

 そして五代は、最も恐ろしいインフラの牙を剥いた。

「……さらに、アプト式の真価は『登り』ではありません。箱根最大の地獄である『夕方の大渋滞(下り坂)』でこそ、絶対的な力を発揮するんです」

 五代の言う通り、休日の夕方、箱根から小田原へ下る国道1号線は、すべての車が一斉に帰路につくため完全に停止する。フットブレーキを踏み続けたマイカーや路線バスは、ブレーキパッドが過熱して効かなくなる「フェード現象」を起こし、死の恐怖に怯えながらノロノロと下るしかなかった。

「……我々のバスは、帰り道、大渋滞の車道を横目に専用軌道へ入り、アプトの歯車を噛み合わせる。……歯車による『絶対的な物理ブレーキ(抑速)』です。ブレーキが焦げる心配も、渋滞のイライラも一切ない。涼しい顔で、時速30キロで一気に下界まで駆け下りる」

 五代の言葉に、その場にいた京急の技術者たち全員が震え上がった。

 それは、既存の車と鉄道が抱える「箱根の死の構造」を、アナログの知恵とアプトの物理法則で完全に無効化する、悪魔的なほどのインフラの最適解だった。

「……さぁ、小田急のボンボンどもに教えてやろうぜ」

 高見がニヤリと笑う。

「俺たちの時速30キロが、どれだけ絶望的に『速い』かってことをな」

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