第117話 完璧な防護工と、赤色(バーミリオン)の嫌がらせ
昭和52年(1977年)、初夏。
深夜の過酷な空中戦(防護シェルター建設)を乗り越え、ついに相鉄・京急の巨大な高架線は、国鉄・東海道新幹線の頭上を完全に跨ぎ越した。
「……忌々しい。あの私鉄の連中、たった数ヶ月の深夜作業で、本当にボルト一つ落とさずにやり遂げおったか……」
国鉄・東京南鉄道管理局長の須藤は、小田原駅の新幹線ホーム(下り線)に立ち、ホームの端から小田原の空を覆う巨大な「鋼鉄の防護シェルター」を苦々しく見上げていた。
現場の保線屋たちが血の涙を流しながら組み上げたシェルターは、チリ一つ通さない完璧な仕上がりだった。
「……局長。悔しいですが、安全基準は完全に満たしています。これでは工事の差し止めは……」
「……分かっている! ええい、視界が暗くなって不愉快極まりない! さっさと東京に戻るぞ!」
須藤が踵を返そうとした、その時だった。
朝の光が完全に差し込み、東京側からドーム状にせり出した**防護シェルターの『アプローチ面(側面)』**が露わになった瞬間、新幹線ホームで列車を待っていた乗客たちが、一斉にそちらを指差してざわめき始めた。
「……ん? なんだ、あのド派手な色は……」
須藤が振り返り……そのまま、心臓が止まりそうになった。
ホームから見上げる位置。そして、東京方面から小田原駅に進入してくる列車の「真正面」。
国鉄が「造れ」と命じた巨大な防護シェルターの側壁全面が、**網膜を焼き尽くすような鮮烈な『京急バーミリオン(赤色)』**に塗装されていたのだ。
さらに、そこには巨大な白抜き文字と、バカでかいネオンサインが煌々と輝いていた。
『ようこそ小田原へ! 箱根・横浜・都心へは、安くて快適な【京急・相鉄 特急】にお乗り換え!』
「……なっ……!? ななな、なんだこれはァァァッ!!?」
須藤の絶叫が、新幹線ホームに響き渡った。
「……神聖なる新幹線の頭上で、私鉄の宣伝だと!? しかも『安くて快適』だと!? 我々国鉄への当てつけか!!」
顔を真っ赤にして激怒する須藤の背後から、コツン、コツンとステッキの音が近づいてきた。
五代と高見だった。
「……おや、須藤局長。我々の完璧な防護シェルターの出来栄え、いかがですかな?」
五代が、これ以上ないほど爽やかな(底意地の悪い)笑顔で会釈した。
「……五代ィ! 貴様、このふざけた塗装と看板はなんだ!! 通過する新幹線の中から、自分の頭上の看板など見えるわけがないだろうが! 不敬な上に無意味な真似を……!」
「……ええ。時速210キロで通過するひかり号の乗客には、ただの赤い影にしか見えませんよ」
五代は、わざとらしく頷いてみせた。
「……だが、ここは『小田原駅』だ。……ひかりの通過待ちのために、各駅停車の『こだま』が何分も停車する。……その間、車内で暇を持て余した乗客や、ホームで列車を待つ大勢の客の視線の先には……嫌でもあの巨大な『赤い防護工(広告)』が真正面に飛び込んでくる寸法だ」
「……ぐ、ぐぬぬ……ッ!」
「……撤去しろと仰るなら、外しますよ? ただし、あのパネルを外せば『ボルトが落ちる危険』がありますがね。……国鉄さんの絶対の安全基準を、我々から破るわけにはいきませんからなあ」
五代の完璧な『合法的かつ幾何学的な嫌がらせ』の前に、須藤はギリッと奥歯を噛み砕かんばかりに歯軋りした。
撤去させようにも、国鉄自身が突きつけた安全基準が、国鉄自身の首を絞めていたのだ。
「……新幹線の乗客が、毎日小田原で退屈な通過待ちをするたびに、あの『赤い看板』をじっくりと見上げることになりますな。……せいぜい、ウチの宣伝に貢献してくださいよ」
高見がタバコの煙をふうっと吐き出し、トドメを刺した。
権力を笠に着た官僚への、インフラ屋ならではの最悪のカウンター。
国鉄のエリートたちは、小田原駅に永遠に居座り続ける「敗北の赤いネオン」を見上げながら、血の涙を流して立ち尽くすのだった。




