第116話 天空の総防護シェルターと、深夜4時間の死闘
昭和52年(1977年)、初夏。
深夜0時。最終のひかり号が東京へと走り去り、小田原駅の頭上に架かる東海道新幹線の送電が停止した。
「……第37日目、作業開始! 今日で最終スパン(区画)だ! 泣いても笑っても、これで最後だぞ!!」
投光器の眩い光の中、高見の野太い声が夜空に響き渡った。
相鉄・京急の『特別架橋連隊』による、新幹線の真上を覆う「巨大な鋼鉄の防護シェルター」の建設工事。
万が一、ボルト一つ、スパナ一本でも落下させて新幹線の架線や軌道を傷つければ、即座に工事は差し止められ、莫大な損害賠償と共に小田原ターミナル建設の悲願は完全に絶たれる。
「……おい、あそこの足場の単管、少し揺れてないか? 固定用クランプを二重にしろ。……絶対に、何一つ落とさせるな」
地上数十メートルの足場の下、新幹線のホームには、国鉄・東京南鉄道管理局の監視員たちが何人も並び、双眼鏡を構えて目を光らせていた。
彼らは「工事の安全」を見守っているのではない。私鉄の連中が『ミスを犯す瞬間(工事差し止めの口実)』を、ハイエナのように手ぐすね引いて待っているのだ。
ギィィィ……!!
クレーンが、重さ数トンにも及ぶ最後の鋼鉄パネルを吊り上げる。
作業員たちは、腰に何重にも命綱と工具落下防止ワイヤーを巻きつけ、息を殺して巨大な鉄塊を迎え入れた。
「……右、あと2センチ……ストップ! 穴位置合わせ……ヨシ!!」
「……ボルト挿入! ナット仮締め……!」
チャキッ、カチャリ……。
ボルトを締めるラチェットレンチの音すら、深夜のホームには異様に大きく響く。
手汗で滑らないよう、作業員たちは何度もウエスで手を拭い、一つ一つのボルトを憎らしいほど丁寧に締め上げていく。国鉄の監視員たちが放つ、ねっとりとした視線のプレッシャーが、じわじわと彼らの体力を奪っていった。
「……高見さん。最終パネル、本締め完了しました。……全ボルト、マーキング確認ヨシ!」
「……工具の数は!? 予備のボルトは余ってねえだろうな!」
「……全数確認、異常なし! 軌道上への落下物、一切ありません!!」
高見は、懐中電灯で現場を隅々まで照らし出し、自らの目で三度目の最終確認を行った。
ボルト一つ落ちていない。傷一つない。完璧な、無骨な鋼鉄の屋根が、新幹線の高架を完全に覆い隠していた。
「……よし。……全面撤収!!」
午前3時59分。
始発のための送電再開のわずか1分前。すべての作業員が足場から地上へと降り立ち、現場は嘘のように静まり返った。
「……チッ。忌々しい私鉄の土方どもめ。本当にやり遂げおったか」
新幹線ホームで双眼鏡を下ろした国鉄の監視員が、舌打ちをして踵を返した。
それを土手の上から見届けていた五代が、プレハブ小屋に倒れ込んだ高見に、冷たい缶コーヒーを差し出した。
「……見事だったぞ、高見。これで国鉄の頭上(空)は、完全に我々のものだ」
「……へへっ。国鉄のエリートども、悔しさで夜も眠れねえでしょうね」
高見はヘルメットを取り、煤と汗にまみれた顔で笑った。
物理的な壁は、すべて越えた。あとはこの巨大な防護シェルターの上に、自前のレールと駅ビルを載せるだけだ。
誰もが、そう確信した朝だった。
だが、国鉄という巨大な官僚組織の『本当の陰湿さ』は、物理的な建設が終わった後にこそ牙を剥く。
「……局長。私鉄の連中、ついに防護シェルターを完成させました。……ボルト一つ落とさずに」
「……ふん。土方の意地というやつか。だが、あれはただの『むき出しの鉄骨』だろう?」
東京の局長室。
報告を受けた国鉄の須藤局長は、分厚い法令集をパラパラと捲りながら、ねっとりとした笑みを浮かべた。
「……小田原は海が近い。むき出しの鋼鉄など、すぐに塩害で錆びて新幹線にサビの粉が降り注ぐ。……奴らに通達しろ。『国鉄指定基準を超える、最高等級の防食塗装』を全面に施せとな。……できなければ、景観・安全条例違反で、あの巨大な鉄屑を即刻撤去させる」
午前3時59分の死闘を越えた野良犬たちに、休む間もなく、官僚の「合法的な難癖(罠)」が静かに忍び寄っていた。




