第115話 見下ろす絶対城壁と、堕ちた帝国のブーメラン
昭和52年(1977年)、春。
酒匂川の巨大な鉄橋を自前のインフラ網で架け渡し、ついに小田原の市街地へと足を踏み入れた相鉄・京急の『特別架橋連隊』。
しかし、小田原駅のターミナル予定地へ到達する直前、彼らの前に小田急とは質の違う「最悪の壁」が立ちはだかっていた。
日本国有鉄道(国鉄)。
国家の威信たる『東海道新幹線』と『東海道本線』の超巨大な高架と盛り土が、小田原の街を東西に分断するようにそびえ立っていたのだ。
「……五代君。品川駅で君たち京急が新幹線の上を跨いでいるからといって、この小田原でも同じことができると思ったら大間違いだ」
国鉄・東京南鉄道管理局の応接室。
局長の須藤は、ふんぞり返って高級な玉露をすすりながら、五代と高見を見下していた。
「……品川の八ツ山橋は、大正時代からある『戦前の遺物』だ。我々国鉄が後から新幹線をその下に滑り込ませたに過ぎない。……だが、今から新たに『神聖なる新幹線』の頭上を跨ぐとなれば話は別だ。……国鉄法に基づく『新幹線特例防護基準』を適用させてもらう」
須藤がテーブルにドンッ!と叩きつけたのは、分厚い法令集と要求書の束だった。
「……君たちの線路を上空に通す条件だ。まず、新幹線の架線にチリ一つ落とさないよう、我々の線路を完全に覆い隠す『鋼鉄の総防護シェルター』を建設すること。……そしてもう一つ。新幹線は1日に何十万人という国民の足を担う大動脈だ。……万が一、君たちの不手際でボルトが一つ落下し、新幹線が半日でも運休になれば、経済損失は天文学的な数字になる」
須藤は、脂ぎった顔にねっとりとした笑みを浮かべた。
「……よって、工事着工の条件として、万が一の損害賠償を担保するための『新幹線運休補償供託金』を国庫に納めてもらう。……その額、**現金で『500億円』**だ」
「……ご、ごひゃく……おく……!?」
同席していた相鉄の担当者が、完全に絶望して声を裏返らせた。小田原ターミナル全体の総予算すら軽く吹き飛ぶ、狂気のような金額。
合法的な法令と安全神話を盾にして、私鉄には絶対に払えない金額を突きつけ、自主的に計画を断念させる。これが、国鉄という絶対的権力の「ねっとりとした兵糧攻め」だった。
「……払えないなら、大人しく地下深くを這いつくばってトンネルを掘りたまえ。モグラ(私鉄)にはお似合いだ。……我々国鉄は、絶対にボルト一つ落とさない『完璧な安全と責任』を背負っている組織なのだからね」
勝ち誇る須藤。
しかし次の瞬間、応接室に五代の低く、冷酷な笑い声が響いた。
「……くくっ。……はははははっ!! 完璧な安全と責任? 500億円の供託金だと?」
五代は立ち上がり、ステッキの先でドンッ!と分厚い法令集を突いた。
「……笑わせるなよ、須藤局長。……つい2年前の昭和50年。お前ら国鉄の労働組合が『スト権スト』で全国の電車を8日間も全面ストップさせ、国民経済に何千億円というダメージを与えたのを、もう忘れたのか?」
「……なっ!?」
須藤の顔から、一瞬にして血の気が引いた。国鉄にとって絶対に触れられたくない、日本鉄道史に残る最大のタブー(大不祥事)だった。
「……自分たちの内輪揉めで8日間も国の物流を麻痺させておきながら、お前らは国庫に1円でも賠償金(500億)を払ったのか? ええ? 払ってないよなあ!?」
「……き、貴様ッ! それとこれとは話が……!」
「……同じインフラ屋の『責任』の話だろうが!」
五代の怒声が、応接室の空気をビリビリと震わせた。隣で高見も、ニヤリと悪そうに笑ってタバコに火をつける。
「……それに『ボルト一つ落とさない完璧な組織』だと? ふん、その腐りきった官僚体質と、ろくに現場の保線もできない組合の怠慢を見る限り……いずれ数十年後には、お前ら自身のガバガバなメンテ不足で、自前の電柱を線路にダイナミックにぶっ倒して自爆(※鎌倉のブーメラン)する未来が見えるぜ」
「……で、電柱が倒れる……!? ば、馬鹿なことを言うな! 我が国鉄の保線を愚弄する気か!!」
「……愚弄されるような隙を見せているのはそっちだ。……いいか、この500億の理不尽な要求書、今すぐマスコミと国会にバラ撒いてもいいんだぞ? 『8日間電車を止めた国鉄が、私鉄の半日の運休リスクに500億を要求している』とな。……世論がどう動くか、エリートのお前なら分かるよな?」
政治と世論という名の特大ブーメランが、国鉄官僚の急所に深々と突き刺さった。
須藤はワナワナと唇を震わせ、手元の要求書を握り潰すことしかできなかった。
「……供託金はゼロだ。その代わり、お前らが望む『完璧な鋼鉄の総防護シェルター』はウチの技術(保線屋)で完璧に造ってやる。……小田原の空は、我々がいただくぞ」
絶対的権力の「法と金の壁」は、野良犬の悪知恵と、堕ちた帝国自身の矛盾によって無惨に打ち砕かれた。
いよいよ、国家の威信(新幹線)の頭上で繰り広げられる、絶対にモノを落とせない極限の空中建設戦が幕を開けようとしていた。




