第114話 開通の朝日と、権藤の戦慄
昭和52年(1977年)、春。
凍てつく冬が終わり、小田原にも少しずつ春の気配が漂い始めた頃。
小田急電鉄・工務部長の権藤は、黒塗りのハイヤーに揺られ、酒匂川の西岸へと視察に向かっていた。
「……部長。そろそろ五代たちも、音を上げる頃合いでしょうか」
助手席の部下が、機嫌取りのように振り返って笑った。
「……ふん。県西部のゼネコンと生コン業者を完全に干し上げたんだ。……トラック陸送では生コンのタイムリミットに間に合わない。今頃ヤツらは、橋脚の一本も立てられず、河川敷で石ころでも蹴飛ばしているだろうよ」
権藤は、葉巻の煙を燻らせながら余裕の笑みを浮かべていた。
彼は現場を知り尽くした技術者だからこそ、「資材がないことの絶望」を誰よりも理解している。金や気合だけでは、重力とコンクリートの壁は絶対に越えられないのだ。
「……車を停めろ。ヤツらの無様な『行き止まりの線路』を、特等席で拝んでやろう」
ハイヤーが土手の上に停まる。
権藤はゆっくりとドアを開け、朝靄が晴れつつある酒匂川の対岸(東岸)へと視線を向けた。
「……さあ、見せてみろ。お前たちの絶望……」
権藤の言葉が、途切れた。
咥えていた葉巻が、ポロリと足元の草むらに落ちた。
「……ぶ、部長……!! あ、あれは……ッ!?」
部下が、シートから転げ落ちんばかりの勢いで窓に張り付き、悲鳴を上げた。
朝日に照らされた酒匂川。
そこには、行き止まりの線路などなかった。
何百メートルにも及ぶ広大な川幅を完全に跨ぎ切る、**『無骨で、巨大で、圧倒的な強度を持った真新しい鋼鉄の橋』**が、威風堂々とそびえ立っていたのだ。
「……な、なんだアレは……!! 地元の業者は一袋もセメントを売っていないはずだ!! 県外からダンプで運んだのか!? いや、あんなバカでかい鉄骨をどうやって……!!」
パニックに陥る部下の横で、権藤の顔からは完全に血の気が引いていた。
一流の技術者である権藤の脳髄が、目の前の「あり得ない光景」から、ヤツらの狂気の手法を瞬時に逆算していく。
「……違う……。ヤツらは生コンを運んでいない。……河川敷に生々しいプラントの跡がある……。自前で粉を運び込み、現場で練り上げやがったんだ……」
「……げ、現場で!? しかし、あの橋桁は……!!」
「……トラックで運べるサイズじゃない。……ヤツら、川崎のNKK(日本鋼管)から台船で金沢の工場へ鋼材を運び、そこで組み上げた巨大な橋桁を……『標準軌の貨車』に載せて、深夜の線路で直送しやがったんだ……!!」
権藤は、ワナワナと震える手で、真新しい鉄橋の無骨なリベットを指差した。
「……我々が地方のゼネコンを抱え込んで喜んでいる間に……五代のヤツは、川崎から三浦半島までの**『京浜工業地帯のバケモノたち(重工業)』**を、自社のインフラ網(海と陸)で、この小田原の最前線に丸ごと叩きつけてきやがったんだよ……!!」
ドサッ、と。
小田急の現場のドンである権藤が、力なく土手の上にへたり込んだ。
「……昼夜24時間、数ヶ月に及ぶ突貫工事……。日々の本線の安全は絶対に守りながら、これだけのマンパワーと物流を維持し続ける異常な組織力……。これが、相鉄と京急の……『現場の執念』……」
権藤の額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちた。
彼らが相手にしていたのは、ただの鉄道会社ではなかった。
国家の経済成長を根底で支える、泥と鉄と海を知り尽くした「真のインフラ屋」の連合軍だったのだ。
プァァァァァァン……!!
その時、完成したばかりの鉄橋の上を、資材を積んだ京急の無骨な事業用車両が、重厚なジョイント音を響かせながら、ゆっくりと、しかし確実に『小田原の土地(西岸)』へと足を踏み入れてきた。
「……越えられた。……我々の防衛線が、ついに……」
昭和52年、春。
小田急の仕掛けた絶対的な兵糧攻めは、インフラの暴力の前に完全に粉砕された。
野良犬たちはついに最大の障壁であった酒匂川を越え、小田急の喉元である「小田原駅」へと、その鉄の牙を剥き出しにして迫り来るのであった。




