第113話 海と陸の血脈、そして夜の陣
昭和52年(1977年)、冬。
深夜零時過ぎ。小田急の特急が走り去り、街が完全に寝静まった時間。
酒匂川の河川敷に、地響きのような重低音が響き渡っていた。
「……第2チキ、到着! 橋桁の固定ワイヤー解除!!」
「……クレーン旋回! ウインチのテンション緩めるなよ、何十トンあると思ってんだ!!」
投光器の強烈な光に照らし出されたのは、京急の事業用貨車から降ろされる、規格外の巨大な『鋼鉄の橋桁』だった。
「……高見さん。いくら金沢文庫の工場で橋桁を組むといっても、その元の『鋼材(鉄)』は川崎の沖合、NKK(日本鋼管)の人工島で作ってるんですよね? さすがの京急でも、海の上までは線路が繋がってないでしょう。まさかトラックで運んだんですか?」
部下の一人が、巨大な鉄塊を見上げながら不思議そうに尋ねた。
それを聞いた高見は、鼻でふっと笑ってタバコの灰を落とした。
「……バカ野郎。何十トンもあるむき出しの鋼板を何枚もトラックで運んだら、首都高の底が抜けるわ」
「……え? じゃあ、どうやって金沢の工場まで……」
「……**『海』**だよ」
高見は、夜の闇の向こう、遠く相模湾から繋がる広大な海を指差した。
「……川崎の人工島で作られた極上の鋼板は、岸壁からそのまま『台船』に積まれ、東京湾を海上輸送されて、金沢の埋立地にある工場の岸壁に直接着岸する。……そこで三菱の連中が巨大な橋桁に組み上げ、それを俺たち京急が『標準軌』の貨車で引き取って、この小田原の最前線まで直送しているんだ」
「……海運と、鉄道……!!」
部下の目が、驚愕に見開かれた。
「……ああ。これが、川崎から三浦半島までを支配する『京浜工業地帯の真の血脈(物流)』だ。……小田急の権藤が、地方の生コン屋やダンプをいくら封鎖したところで……俺たちが背負っているインフラのスケールが最初から違うんだよ」
高見はタバコを踏み消すと、ヘルメットを目深に被り直した。
「……さあ、講釈は終わりだ! ウィンチ巻け!! ジャッキアップ!!」
昼の陣が泥まみれになって打ち上げた「コンクリートの橋脚」の上に、今度は夜の陣が「鋼の道」を架けていく。
対岸の橋脚に向かって、巨大な橋桁をローラーとジャッキで少しずつ押し出していく『送り出し工法』。ミリ単位のズレが命取りになる、極限の緊張感が現場を包む。
「……高見さん! ローラーの軸受けが軋んでます! 鉄の重みで……!」
「……油を差せ! 止めるな! 小田急の連中が起きる前に、このスパンを対岸の橋脚に乗せ切るんだ!!」
ギギギギギギッ……!!
凍てつく冬の夜風の中、分厚い鋼鉄同士が擦れ合う悲鳴のような音が響く。
作業員たちの吐く白い息と、投光器に照らされた土埃が混じり合う。彼らはただの土木作業員ではない。何百トンという列車の荷重を知り尽くした、相鉄・京急の「保線(鉄道技術者)」の精鋭たちだ。
「……あと1メートル……! あと50センチ……!」
高見が、橋脚の上でジャッキのバルブを握りしめながら叫ぶ。
巨大な橋桁が、暗闇の虚空を越え、対岸に立つ真新しいコンクリートの橋脚へとゆっくりと近づいていく。
「……ヨシ! 着床!! アンカー固定しろォッ!!」
ズゥゥゥン……!!
重厚な振動と共に、巨大な橋桁が橋脚に完璧に収まった。
その瞬間、張り詰めていた現場の空気が弾け、作業員たちから地鳴りのような歓声が上がった。
「……やったぞ! これで3本目だ!!」
「……川の真ん中まで来やがった!!」
高見はヘルメットを取り、汗で濡れた前髪を乱暴に掻き上げた。
土手の上からその様子を見下ろしていた五代が、満足げにステッキで地面を叩く。
「……見事だ。川崎の『鉄』と、東京湾の『海運』、金沢の『加工技術』。そして我々の『標準軌』と『保線屋の意地』。……これらが一つに繋がった時、地方のローカルな兵糧攻めなど、ただの紙切れに過ぎない」
夜明けが近づいていた。
東の空が白み始める中、酒匂川には、小田急の技術トップ・権藤が「絶対に架からない」と高を括っていた無骨で巨大な鉄橋が、その姿をはっきりと現し始めていた。




