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第110話 完全なる兵糧攻めと、笑う鉄道技術者

 昭和52年(1977年)、冬。

 箱根の山々から流れ出し、相模湾へと注ぐ県西部最大の一級河川、酒匂川さかわがわ

 その広大な河川敷のこちら側(東岸)に、五代と高見は立っていた。

 冷たい川風が吹き荒れる中、川の向こう岸には、小田急の防衛線が敷かれた小田原の街が広がっている。

 ここから先へ進むには、この何百メートルもある川幅を跨ぐ「巨大な鉄橋」を架けなければならない。しかし、現場の空気は重く、絶望に支配されていた。

「……五代さん、高見さん。……ダメです。全滅です」

 建設部隊の担当者が、青ざめた顔で報告書を握りしめて駆け寄ってきた。

「……県西部のゼネコン、資材業者、生コンプラント……手当たり次第に当たりましたが、ウチとの取引をすべて拒否されました。『小田急さんから、向こう10年分の仕事を貰う約束になっている。悪いが、あんたらにセメント一袋、鉄骨一本たりとも売るわけにはいかない』と……!」

「……権藤のヤツめ。完全に根回し(ブロック)を終わらせていたか」

 高見が、忌々しそうに舌打ちをした。

「……川崎や横浜の業者から、ダンプとミキサー車で陸送させるわけにはいかないのか?」

 五代が静かに問う。しかし、担当者は首を横に振った。

「……予算が倍どころか、3倍に膨れ上がります。……それに、生コンクリートは『生き物』です。練ってから打設するまでの時間に厳格なタイムリミットがあり、遠方から渋滞する国道で運べば、酒匂川に着く頃には骨材が分離して使い物にならなくなります!!」

 担当者の悲痛な叫びが、川風に掻き消される。

 予算の崩壊。そして、生コンのタイムリミットという物理的な壁。

 小田急の技術トップ・権藤が仕掛けた「兵糧攻め」は、土木工事の急所を完璧に突いた、まさに『致命傷チェックメイト』だった。

「……終わりだ。地元で資材が買えないなら、橋なんて絶対に架けられない……。小田原の土地を手に入れても、俺たちはこの川を一生渡れないんだ……!」

 担当者が、絶望して膝から崩れ落ちそうになった、その時だった。

「……くくっ……。アハハハハハッ!!」

 突如、五代が腹を抱えて笑い出した。

 つられて、隣に立つ高見も、口角をニヤリと吊り上げて笑っている。

「……ご、五代さん……? 高見さんまで、何を笑って……」

「……いや、権藤という男は、本当に優秀な『鉄道技術者』だと思ってな。……インフラ屋の弱点を、これでもかと完璧に突いてきている」

 五代はステッキを砂利に突き立て、冷たく光る目で対岸の小田原を睨みつけた。

「……だが、あいつは一つだけ致命的な勘違いをしている。……高見、教えてやれ」

「……ああ」

 高見は、作業着のポケットからタバコを取り出し、火をつけた。

「……おい。業者が売ってくれないなら、俺たちの手で『一から造れば』いいだけのことだ」

「……え?」

「……陸送がダメなら、俺たちの『線路インフラ』を使え。京急の標準軌(1435mm)なら、ミキサー車が運べないような規格外の『乾燥セメント(粉体)』も『巨大な鋼桁』も、チキ(長物車)に山積みして一気に前線へ運べる。……水は目の前に腐るほどあるんだ。資材だけ運んで、この河川敷で俺たち自身の手でコンクリートを練り、橋脚を打つぞ」

「……バ、バカな! そんな大規模な工事、一体誰がやるんですか!? 地元のゼネコンは誰も協力してくれませんよ!」

 担当者がパニックになって叫ぶ。

「……ゼネコン? そんなもの要るか」

 高見が、タバコの煙をふうっと吐き出した。

「……相鉄と京急の全線から、泥にまみれた『保線(鉄道技術者)』の腕利きを根こそぎかき集めろ。……日々のメンテ(本線の安全)は絶対に落とさず、ギリギリのシフトを組んで小田原に『特別架橋連隊』を編成する」

 高見の目に、インフラ屋としての狂気の光が宿っていた。

「……昼は河川敷で橋脚を打ち、夜は終電後の本線を極秘裏に使って鋼桁を運び込み、闇の中で橋を架ける。……完全二交代制、24時間ぶっ通しの『昼夜突貫工事』だ。……権藤のヤツに、現場の意地マンパワーという暴力を見せつけてやる」

 昭和52年、冬。

 小田急の仕掛けた完璧な兵糧攻めに対し、二つの鉄道会社が誇る「現場の技術者たち」が、自らの血と汗と線路だけを武器に、重力とセメントに挑む狂気の建設戦争が幕を開けた。

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