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第106話 札束の防波堤と、地主たちの沈黙

 昭和52年(1977年)、冬。

 箱根の玄関口にして、古くからの宿場町としての歴史と誇りを持つ街、小田原。

 この静かな地方都市の裏側で、今、インフラ企業同士による血みどろの「用地買収(不動産戦争)」が火蓋を切っていた。

「……相場の3倍。いや、5倍出しましょう。これでどうか、この土地を我が小田急電鉄にお譲りいただきたい!!」

 小田原駅周辺の商店街。その一角にある古びた金物屋の土間で、高級スーツに身を包んだ小田急の用地買収担当者が、ジュラルミンケースを開いて深々と頭を下げていた。

 中には、見たこともないような札束の山がぎっしりと詰まっている。

「……五倍、だと……?」

 代々この地で商売を営んできた老店主は、その現金の暴力に息を呑んだ。

「……ええ。ただし、条件が一つだけあります」

 担当者の目が、冷たく光った。

「……今後、もし相鉄や京急といった『他の鉄道会社』がこの土地を売ってくれと来ても、絶対に首を縦に振らないこと。……それだけお約束いただければ、この現金は今すぐあなたのものです」

 美しいロマンスカーを暴徒に破壊され、プライドを粉々にされた小田急の常務・御子柴。

 彼の命令は絶対だった。「野良犬どもを一歩も小田原に入れるな」。

 その至上命題を果たすため、小田急は莫大な資金を湯水のように投入し、五代たちが引いた「相鉄・京急連合 小田原延伸ルート」上の土地を、ピンポイントで先回りして買い占め(ブロック)し始めたのだ。

        * * *

 【数日後・京急本社】

「……五代さん、マズいです。小田原の延伸予定ルート上の地主たちが、次々と小田急の札束ビンタに落ちています!!」

 高見(相鉄)が、真っ赤なバツ印だらけになった小田原の都市計画図をバンッと広げ、血相を変えて叫んだ。

「……このままじゃ、せっかく運輸省から強奪した『延伸特許(免許)』も、ただの紙切れになります! 線路は空には敷けません、土地がなければ1ミリも進めないんです!!」

 高見の焦燥はもっともだった。

 鉄道建設において、最も過酷で泥沼化するのが「用地買収」だ。1軒でも立ち退きを拒否すれば、ルートは分断され、計画は数年、下手をすれば数十年単位で頓挫する。

 小田急は、まさにその弱点を「圧倒的な資金力」で突いてきたのだ。

「……落ち着け、高見」

 五代は、デスクでふうっと紫煙を吐き出しながら、焦る様子もなく図面を見つめていた。

「……あのプライドの高い柴犬(御子柴)が、自ら泥をすすって札束の殴り合いを仕掛けてくるとはな。……ロマンスカーを壊された恨みは、よほど骨身に染みていると見える」

「……感心している場合ですか! ウチも小田急に対抗して、6倍、7倍の金額を提示しますか!?」

「……バカを言え。そんなマネ札戦マネーゲームに付き合えば、開通する前にウチの屋台骨が折れる」

 五代はタバコを灰皿でもみ消し、鋭い眼光を高見に向けた。

「……高見。お前は、あのアホな暴動(鎌倉事件)で、なぜ我々が国鉄に勝てたのか忘れたのか?」

「……え?」

「……金や権力(見栄)で客を縛り付けようとした組織は、必ず足元から崩壊する。……小田原は、代々続く商人や地主たちがプライドを持って生きている街だ。……そんな彼らを、ただの『障害物』として札束で退かそうとする小田急のやり方は、いつか必ず反発を招く」

 五代はステッキを手に取り、立ち上がった。

「……札束には『民意』で勝つ。……鎌倉で数万人の客を救った『段ボール電車の英雄』という最強のカードを、小田原の住民たちに叩きつけてやるんだ。……行くぞ、高見。泥まみれの営業(ドブ板)の時間だ」

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