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第105話 鮮度の刺客 ~三崎の赤身と、新宿の狐~

 昭和52年(1977年)、冬。

 新宿・歌舞伎町の路地裏にひっそりと佇む、看板のない超高級寿司店。

 その奥の座敷で、小田急電鉄の若き常務・御子柴みこしばは、青ざめた顔で正座していた。

 対座しているのは、小田急のトップ――社長の稲荷いなりである。

 政財界に太いパイプを持ち、新宿の歓楽街の利権をも牛耳るこの老人は、その狡猾さから密かに『新宿の狐』と呼ばれ恐れられていた。

「……稲荷社長。此度のロマンスカーの件、私の見通しが甘く……多大なブランドの失墜と、修理費の損害を出してしまいました」

 御子柴が、畳に頭を擦りつけるようにして謝罪した。

 しかし、狐(稲荷)は責めるでもなく、ただ静かに目の前の寿司桶から、艶やかに光る「赤身」をつまみ上げた。

「……まあ、食え。御子柴。美味いぞ、今日のマグロは」

「……は、はい。いただきます」

 促されるまま、御子柴は震える手で箸を取り、マグロの赤身を口に運んだ。

 ――美味い。

 口の中でとろけるような濃厚な旨味。海から遠く離れた新宿のど真ん中とは思えない、異常なまでの「鮮度」だった。

「……社長。この赤身は……大間のマグロですか?」

「……いや。三崎みさきだ」

 稲荷が、細い目をスッと開いた。

「……三崎のマグロが、なぜここ新宿で、これほどの鮮度を保って出せるか分かるか? 御子柴」

「……それは……」

「……京浜急行だ」

 御子柴の背筋に、冷たい汗が伝った。

「……京急の奴ら、ただ暴動で客を運んだだけじゃない。……毎朝、三浦半島で水揚げされた極上のマグロを、自社の高速ダイヤに載せて、血抜きも鮮度も完璧な状態のまま、都内の市場まで数十分でかっ飛ばしてきている。……この新宿の高級店ですら、今や京急の『インフラの暴力(鮮度)』に胃袋を掴まれているんだよ」

 稲荷は、冷ややかな声で告げた。

「……お前が『美しい特急』で優雅に観光客を運んでいる間に、泥臭い野良犬どもは、我々の喉元まで噛み付いてきているぞ。御子柴」

 それを聞いた御子柴の瞳孔が、微かに揺れた。

 彼は、手元の醤油皿に残された、もう一切れの真っ赤なマグロを凝視した。

「……いや、いい。……これは挑戦状だ。……『俺たちが三崎でマグロを捌いている間に、お前たちの物流網は、この刺身の鮮度すら上回る速度で京急にハッキングされている』……という、五代からのメッセージだ……!」

 御子柴は、震える手で一切れの赤身を口に運んだ。

 ……旨い。暴力的なまでに、旨い。

 だが、その脂の甘みは、御子柴の舌を切り裂くような「敗北感」を伴って喉を通った。

「……ハア……。……五代……。……あんた、……刺身一切れで、俺をここまで絶望させるのか……ッ!!」

 インフラの敗北という残酷な現実を、文字通り「骨の髄まで」味わわされた柴犬の悲鳴。

 しかし、五代が仕掛けた絶望は、これだけでは終わらなかった。

 その時だった。

 座敷の襖がバンッと開き、御子柴の秘書が血相を変えて転がり込んできた。

「……み、御子柴常務!! 緊急事態です!!」

「……何だ! 社長の前で騒ぐな!!」

「……京急の五代が……運輸省の混乱ドサクサに乗じて……相鉄・京急連合による『小田原への延伸特許』を強奪しました!! 既に認可が下りています!!」

「……は……?」

 御子柴の心臓が、早鐘のように嫌な音を立てた。

 小田原。小田急の絶対的な聖域にして、箱根への唯一の玄関口。

 そこへ、あの京急が来る。物流マグロだけでなく、ついに物理的な鉄の爪を立てて。

 カタ……カタカタカタカタカタッ……!!

 御子柴の手の中で、箸が激しく震え始めた。

 血統書付きの柴犬(御子柴)が、自らの領土を完全に包囲された恐怖と屈辱で、歯の根が合わなくなるほどガタガタと震え出したのだ。

「……五代……五代ェェェェッ!!!」

 御子柴は、醤油で汚れた手も構わず、畳をバンバンと叩いて絶叫した。

「……一歩も、一歩も入れるな!! 私の小田原に、あいつらを入れるな!! 小田急の資金をすべて小田原に投入しろ!! 地主たちに札束を積んで、すべての土地を買い占めるんだァァァッ!!」

 発狂したように喚く御子柴を、新宿の狐(稲荷社長)は、冷たい目で見下ろしていた。

 昭和52年、冬。

 三崎の赤身という「鮮度の刺客」に打ちのめされた小田急は、ついにスマートな美学を捨て、なりふり構わぬ札束の防衛線(用地買収戦)へと狂気の舵を切ったのである。

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