独りだと寂しい男
本日は絶賛何もない日だ。バイトもなく竹内くんはデートだと言っていた。流石にデートの日に僕の家に来ることはないだろう。僕にも彼女にも失礼だ。せいぜい二人で幸福のランデブーを堪能するが良いさ。僕は自身に恋人がいないからと言って、他のカップルを貶すほどには落ちぶれちゃいない。一人だっていいものさ。決して強がりではない。これは本心からの言葉だ。ああ、本当だ。
自転車で少し遠くまで行くのも悪くないかと一瞬だけ思い、外の寒さを想像して辞めた。僕の自転車、「グレイトデストロイヤー号」は大学生の時、バイト代を貯めて買ったクロスバイクだが、そのタイヤは未だ県境を跨いだことがなく、バイト先や銭湯に行く時の足になっている。自転車として、一回ぐらい遠出を経験させてやりたい気持ちはあるが、言い訳思考の持ち主は、その気持ちをすぐに投げ出してしまう。ごめんよ。
ともすれば読書。悪くない。しかし、それではいつもの日常とあまり変わりがないだろう。もちろん習慣は大切だ。だが、その習慣に変化がないと人生は味気なくなってしまう。今の僕は、習慣より変化を求めている。俗に言う、刺激が欲しいと言うやつだ。漫画に出てくるヤバめの登場人物みたいなもんだ。日常には事件が必要だ。
ではどうすれば刺激を得られるか。考えるのも面倒くさいので、とりあえず僕は外に出ることにした。
ダウンを着て、「グレイトデストロイヤー号」に跨る。斜めがけバックの中に、財布とスマホ、文庫本だけを入れる。いざ尋常に。
自転車を漕ぎ出す。家にいるよりはマシだろう。お洒落な喫茶店にでも行ってしまおうか。久々にラーメンでも食べに行こうか。地球温暖化、移民問題、円安、A Iによる雇用喪失、地球の将来を憂いている顔を浮かべながら街を自転車で徘徊する。
しばらく漕いでいたら日当たりの良い小さな公園を発見した。この公園で優雅に読書をするのも良いじゃないか。大学生の頃、東大生でもないのに、東大の中庭にあるベンチで、ニーチェを読んだことを思い出す。あの時の僕は、自分の大学にはまともに行かず、いろんな大学に進入することにハマっていた。懐かしき思い出だ。それで得たものなど何もない。単位がギリギリになっただけだ。だが何も得ていないからと言って無駄なわけではない。あれはあれで面白かったからそれで良い。
ベンチに座り、本を開き、文字の羅列に目を背ける。やたらと難しい哲学の本など持ってくるのではなかった。何だか読む気にならない。こう言う場所で読むのは、何度も読んだお気に入りの小説か、軽い気分になれるエッセイが良い。哲学書というのは、難解で陰鬱だ。それでも人をひきつけるのは、難解で陰鬱なことに身を浸すことに興奮を覚える人類がいるからだろう。僕だってその一人で。たまには自分を複雑さと思考と眠気の中にたたき落とすことで、何か深いことを考えているような物憂げな表情を演出したいのだ。
家に帰ろうか。帰っていつものように将来にとって何のためにもならない習慣を過ごそうか。無意味で怠惰で非生産的な緩やかな毎日。
僕は足元に目を落とす。公園の砂利の一粒一粒に目をやって見るが、何も面白くない。空を見上げる。絶好の散歩日和とも言える雲ひとつない空は清々しく面白味がない。雲の一つや二つでもあれば、そこに可能性があったのに。
今日は金曜日だから、僕のかつての友達たちのほとんどが労働に勤しんでいるのだろう。寂しいな。一人で本を読んでいるにしても、他の場所で誰かに本を読んでいて欲しいものだ。一緒に遊ばなくても、別の場所で遊んでいて欲しい。連帯感という喜びは僕が自ら捨てたものなので贅沢は言えないが、時々一人が寂しくなる。僕は一人でも多くの知り合いが会社を辞めるように神様にお祈りする。雲がないからお祈りは届きそうだ。神様なんて全く信じていないが。まあ、都合が良い時だけ利用させてもらおう。神様は器がきっと大きだろうから、それぐらい許してくれるだろう。




