約束の流星
【発射 -Launch-】
2003年05月09日13時29分25秒。
鹿児島県の内之浦宇宙空間観測所。
爆音と地響きと共に、私を搭載したM-Vロケット五号機は地面に向けて火炎を噴き出した。轟音と共に140トンの巨体が火柱を立てながら重力に抗う。
重力と機体は拮抗するように、火煙は徐々に斜めに傾き天を貫く。
だがこの勝負はM-Vの勝利だ。
私は、そのロケットの先端にいた。今は体を丸めて、ただロケットの発射が成功するのを祈るだけの少女。
ロケットは何段階にも渡って分離するので、そのどれかが失敗しただけで、私の出番がなくなる。
こちらも『約束』を胸に秘めている以上、そんなバッドエンディングは絶対に嫌だった。
―― 私は小惑星探査機『はやぶさ』。小惑星『イトカワ』の土を持ち帰るのが私の『約束』だ。私はMade in Japan。純粋な国産宇宙探査機だった。
骨の髄まで激しく揺れる中、セーフモードの私は、軌道上での動きを予習していた。ロケットから供給される電流が私の回路で点滅する。私は目を閉じて、呟く。
「ノーズフェアリングが開く、第二段分離、第三段のモーター点火……590秒で私は切り離される。よし……!」
爆音と震動、それから激しい金属音が響き、多段ロケットが複数回にわたって分離されているのがわかる。私は今か今かと時を待った。
590秒。すると、私を固定した金具が外れて、私はゆっくり慎重に宇宙空間へと放たれる。
《いってらっしゃい、はやぶさ。必ず、帰ってきて》
「了解!」
私はゆっくりとスピンした状態でその管制の声を聞いた。
まずはこの動きを止めて、安定飛行すること。これが先決。
私は背負った艤装を背負い直す。体重含めて510キログラムあるが、れっきとした女の子。宇宙を意識した紺の色の制服に、日本の国旗を模した白いワイシャツと日の丸をイメージした赤いリボン。日本人らしい黒髪のセミロング。
背負った艤装には白いゲインアンテナ、沢山のスラスター、四基のイオンエンジン、様々な観測機器が搭載されていた。
私は、艤装の姿勢制御用の化学推進スラスターRCSを吹いて、姿勢を調整する。プログラム通りに、独立して自分の力でこなす。
《姿勢制御よし。太陽電池モジュールを展開せよ》
私は折り畳まれていた太陽光パネルを展開する。一気に宇宙探査機としての存在感が増した気がする。双翼のようだ。パネルは太陽の光を浴びて輝いていた。
次にサンプラホーンを伸ばす。これは、小惑星のサンプルを回収するための特殊なパイプで、今回の任務の文字通り要だった。
「ヨシ!」
こうして小惑星『イトカワ』へ旅立つ準備は整った。
私は後ろを振り返る。青と緑、茶や白に彩られた地球。その複雑な地形と模様は、ずっと見ていても飽きることがない。
……この気持ちを、なんと表したらいいのだろう。
この旅を経て、そんな気持ちを表せるようになれればいいなと、漠然と思って、私はイオンエンジンを点火して地球から遠ざかっていった。
【イトカワへ -ITOKAWA-】
私は地球の重力を使って、勢いよく地球から遠ざかった。その重力から手放され、目的である『イトカワ』へと赴く。
スイングバイ。天体の重力を生かして軌道を確保する行為だ。
――最初のトラブルは2003年11月04日にいきなり起こった。
突然発生した観測史上最強の太陽フレアの粒子が、私の太陽光パネルに無数の見えない傷つけたのだ。明らかに劣化して発電量が減っている。
これは由々しき事態。今後の任務に間違いなく支障をきたす。
思わず太陽光パネルをさする。さすって直るほど、ことは単純ではないのだが……。
「頼むよ~電気がないと、人工衛星は何もできないんだから……」
*
2005年07月29日、スタートラッカーがついにイトカワを捉えた。約二年、何もない空間を時速10万キロ近い速度でひらすら飛び続けて、ようやく辿りついた。
《問題ないよ》《狙い通りの針路だ》《このままイトカワへ!》――正直、故郷から届く微弱な電波がなければ、私はとうに宇宙の闇に消えただろう。それほどに、宇宙の闇は深い。
それから私は1600枚近く写真を撮ったと思う。それだけ、漆黒の空間を背景にする衛星が印象的だったのだ。
灰色な、歪なジャガイモ、あるいは落花生みたいな形をしている。
半径は160メートル、長径500メートル。数々の探査機が向かった巨星とは違う小天体。
表面はゴツゴツした岩で覆われ、大小さまざまな岩塊が散らばっている。くびれた部分があり、全体が二つの大きな天体がくっついたような形をしている。
――トラブルはあったが、二年間。地球から300,000,000キロメートル。なんとか目標のイトカワへと到着した。
これは太陽系誕生時の姿を残す、言わば『生きた化石』らしい。数十億年の時を超えてきた、宇宙の物語の欠片。
なんて考えていたら、唐突に、声が響いた。低い男声だった。
「――お前は遠くから来たのだな。あの、青い光の星から」
声の主はイトカワだった。彼は恐らく私にしか聞こえない声で語りかける。
「あなたは……イトカワ?」
「そうだ。私は長い時をここで眠っていた。まあ、公転してるからずっと同じ場所にいるわけではないんだがな……お主が来てくれたお陰で、暇潰しができそうだ」
「私は暇ではないのだけど……」
「まあ、そう言うでない。あの星――地球は特別だ。水があり、空気があり、命が歌う」
言われてみれば、確かに全てイトカワをはじめ他の天体にはないものだった。
「命……それが地球の輝きなの?」
「そうだ。私は長い孤独の中で、あの青さを眺めてきた。触れることは叶わない。だが、命の息吹を感じ取ることはできた。それが地球の『輝き』ひいては『美しさ』に他ならない」
「地球の命……輝き……美しい……」
「地球には数多の生命がいるのだろう? こんなに生命に溢れている天体を、私は知らない」
「命が、命が輝い――」
しかし会話の途中、突然、私はバランスを崩してイトカワから視線を外してしまった。
姿勢を安定させるためのX軸リアクションホイールと呼ばれる装置が故障した。円盤状のそれは急に動作を停止してしまった。私は姿勢を崩して振り回される。
「目が、目が回る……」
すると今度は、二つ目のY軸リアクションホイールも故障し動作を停止。残りはZ軸のみ。
これとスラスターを代用することになり、私は細かくスティックを操作してスラスターを噴射してようやくバランス感覚を取り戻す。
「難儀な体をしているな」
「そりゃあ、まあ、人工衛星ですから」
「しかし不思議なものよ。地球は、わざわざ『真理』に辿りつくために衛星を飛ばすのか?」
「それが人間の性だから。私は人工衛星だからよくわからないけど」
「ふうむ」
私はイトカワを周回する。
地表に自分の影が落ちると、なんとも言い難い、ここまで来たんだという達成感みたいなのをじわじわと感じられた。
と同時に、ここからが『本番』であるという緊張感も湧いてくる。
《はやぶさ、ミネルバを投下するんだ。ミネルバを投下》
私は指示通りに艤装から小型のセンサー装置”ミネルバ”を射出する。イトカワの表面を偵察するための特殊なセンサーだった。
――が、狙いが外れてしまい、なんとミネルバがイトカワから遠くの宇宙空間へと飛んで行ってしまった。失敗だ。「ありゃりゃ」と落胆する。
「ふふ、下手くそだな」とイトカワにも笑われる。
特にお咎めはなかったが、地球の現場では色々と賑やかになっていそうだ。開発者の人たちは頭を抱えていそう。髪を掻きむしってそう。せっかく英知を集合させて作っただろうに。
私の、機械としての精度を疑われる。ごめん。ただ、宇宙開発に失敗は付き物だと言い訳する。
《――気持ちを切り替えよう。平らな地表で障害物がない『ミューゼスの海』に降下して、サンプル採取を行う》
「了解! イトカワ、砂を採取するよ」
「構わぬ。だが、『約束』して欲しい。私の代わりに、その美しき星を見せてくれ。その砂の粒子を、地球へと送り届けてくれ」
「――わかった。『約束』するよ、私は、地球の青さを胸に刻み、砂粒を届けると」
いよいよ、任務が始まる。
【タッチダウン -Touchdown-】
2005年11月20日。XDay.
タッチダウン開始。
高度40メートルの辺りでターゲットマーカーを落とす。お手玉のようなこれには、88万人の地球の人の名前が刻まれていた。有志を募って公募したものだ。
それだけの『想い』を、私は確かに背負っていた。失敗できない。
私は艤装のフラッシュランプを点滅させて、ターゲットマーカーの位置を確認する。
すると、管制から連絡が入った。
《降下に関しては、君に一任するよ》
「うわー、無駄に緊張させてくるなぁ……」
《大丈夫。プログラム通りにやればいいから》
「それが難しいわけで……」
私は機械だ。忠実にプログラムコードに従うだけ。
でも、確かに心音がうるさくなるのを感じた。それが、幻聴であっても。幻肢痛のように。
ターゲットマーカーを頼りに、徐々に高度を下げていく。ジョイスティックを慎重に操作し、艤装についた化学推進スラスターRCSを細かく操作し、静かに『ミューゼスの海』に降下する。
《ビービービー!》
突然、センサがなにかを感知した。安全装置作動。
咄嗟に。私は慌ててスラスターを噴いて上昇力を得ようとする。回避行動に移る。
「やばっ!」
が、手順を間違えて逆に秒速10センチメートルで降下を始める。――制御できない。地表が迫る。
激しい痛みが体を襲う。私はイトカワの地表に叩きつけられる。二度バウンドして、そのまま地面に突っ伏して動けなくなった。制服が岩に引っかかる。
「いたた……」
「おい、大丈夫か!?」
「平気……へいき……」
感覚でわかる。艤装をぶつけた。なにかシステム障害が発生するかもしれない。
その前に、太陽光パネルは間違いなく打ちつけた。目の端に、先端が削れたパネルが見えた。
精神的な苦痛は耐えられる。だが、物理的な苦痛は、それは同時に――任務の失敗を表す。
「痛い……」
「しっかりしろ。こんなところでくたばっていては駄目だ! 地球へ帰るんだろう?」
「そう、私は……地球へ……帰る」
私は地面に突っ伏したまま、なんとかスラスターを御そうとするが、その状態のまま30分ほど膠着状態が続いてしまう。
「耐えろ」「『約束』を叶えるんだろう?」「頑張れ!」イトカワは懸命に私を励ましてくれた。
焦るたびに装備がイトカワの地表と摩擦して傷つき、余計にバランスを崩す結果になった。自律制御では限界だった。
《強制的にスラスターで上昇せよ!》
多分、管制は何が起こっていたか、把握できていなかったのだろう。
私から送られる数値の異常に気づいた管制から命令が届き、私はなんとか体を起してスラスターを噴いて離脱した。
安全圏に到達して、私は泥汚れて汗ばんだ顔を袖で拭う。どこからか血が流れていた。
解けたリボンを結び、乱れた紺色のスカートの砂を払った。自慢の制服も泥だらけで、引っかけたところはほつれていた。
――こうして、一回目のタッチダウンは、失敗に終わってしまった。
【タッチダウン2 -2nd Part Touchdown-】
二回目のタッチダウンは、イトカワの重力を利用するところから始まった。高度計のレーザーを地表に当てて、高さを測りつつ下降を始める。
私は引き続き自律制御で姿勢を保つ。できる限り、地面に並行に、垂直に。
「いいぞ、はやぶさ。そのまま降下するんだ」
今回はセンサーの誤作動を避けるために、レーザー高度計のみを使う。私はイトカワの指示に従って降下を進めた。
「いいぞ、そのままだ」
私はギリギリまで降下して、”サンプラ制御モード”に入る。
「もう少しだ」
「……了解」
蜂の針のような筒状のそれを地面に向けて差し出す。まるで、竜の尻尾のように。
「今!」着地はわずか数秒。
――成功。「しめた!」
私は着陸に成功し、サンプラを地面につける。そして中で弾丸を発射し、イトカワの地表にそれを撃ち込み、反動で舞い上がったサンプルを回収する。
「OK!」
スラスターを思いきり噴いて急速離脱。イトカワから離れる。
結果は――成功だ。
「上手くいったな、はやぶさ」「うん!」
私は作戦が完了したことを告げる『WCT』という文字を管制に送った。
きっと地球では大盛り上がりだろう。研究者たちが拍手をしながら席を立ち、握手したりハグしたり、興奮に包まれているはずだ。
それを想像すると、大きな誇りを持てた。ありもしない心臓が熱くなった。
*
旅立ちの刻が近づいていた。
私はイトカワの粒子が入ったカプセルを抱きしめて、静かに地球のある方向を見た。小さな、白いドット。微小の点。それが私の故郷だった。
背後で、微かな声がまた響いた。
「もう行くのだな。短い逢瀬だったが、楽しかった」
「うん、もう行くね。けど、あなたの欠片を必ず未来に届けるから。地球に、持って帰るから」
「私は孤独な石に過ぎない。けれど、お前が来てくれたことで、私の存在にも意味が生まれた。……ありがとう。地球に着いたら、どうか彼らに伝えてくれ。私は確かに、この宇宙で生きていたのだと」
「うん。わかった」
一瞬、沈黙が訪れた。
私は最後にその表面を見つめ、微かな輝きを目に焼きつけた。
それは言葉にならない感情だった――『別れ』の痛みと、『約束』の重み。
「行け、旅人よ。お前の翼が燃え尽きても、『約束』は生き続ける」
「さようなら、イトカワ。あなたが教えてくれた”美しい星”へ、私は帰る」
そう言って、私はイトカワの重力圏を離れるのだった。
【悪夢の帰路 -The Nightmare Road Home-】
イトカワと別れてから数日。
予兆なく、私の体の挙動がおかしくなる。慌てて手足をばたつかせるが、姿勢を維持できない。
この無重力状態で、いくら手を仰いたところで制御できない。
原因は燃料漏れ。艤装内部で、化学推進スラスターRCSの燃料ヒドラジンが漏れて気化したせいで、体が回転してしまっている。慣性の法則で止められない。
『姿勢』は探査機にとって『命綱』だ。
姿勢が崩れると地球からの通信を受け取れなかったり、送信できなくなったり、あるいは致命的な故障に陥ったりしてしまう。このままでは、いけない。まずい。
私は地上を信じて返信を待った。
――そうしたら。
きっと、たくさんの人の知識を集結したのだろう。みんなが頭脳を持ちよって、あーでもないこーでもないと議論をぶつけたのだろう。夜通しで。コーヒーを片手に。
《キセノンガスを使って体勢を直すんだ》
と管制から指示がインサートされてきた。全く、予想だにしていない回答だった。
「き、キセノンガス?」
《どうか、我々を信じてくれ。はやぶさ》
キセノンガスは、私が推進に使うガスだ。イオンエンジンに使われる。
艤装にはAからDまでの四基あるが、どれも一円玉を浮かせる程度の力しかない。しかも、現状一基しか使えなかった。
燃費がよく数年間単位でじっくり加速できるので、メインスラスターとして使っていた。これで、素早く姿勢制御できるのか……?
半信半疑。私は本来なら違う用途のキセノンガスを噴射して制御を試みる。
バランスを崩す、立て直す。崩す、立てる。ジョイスティックを静かに倒しては、戻しを繰り返す。
そして、この格闘の末、ようやく姿勢を制御できた。
同時に悪化していた通信が回復する。
情報を管制とやり取りしていると、先ほどのサンプラ内部で『弾丸』が正確に発射されていない可能性が出てきた
もしそうならば、サンプルを採取できていかもしれない。その結果に失望した。誇りは一気に霧散した。
「そ、そんな……」
私がイトカワに来たのは、他ならぬ貴重な小惑星のサンプルを採取するため。
彼と結んだ『約束』は不意になってしまうの?
だとしたら、私は何のためにイトカワへ……?
そんなネガティブな思考に呼応すように、再び姿勢制御が崩れ始める。
そして――ついに地球との交信が途絶えてしまった。2005年12月09日に完全に途絶。
私はひたすら、光さえ届かない暗黒の海を、孤独の中で彷徨った。無音の世界。ただ一人、大事な大事なカプセルを抱きしめて浮かぶ。
涙が溢れる。この広大な宇宙の中で、私の存在はあまりにも儚いものだった。
……大丈夫だ、私。きっと地球では、必死に私を探しているの。そう信じた。
虚空を漂い、太陽光パネルを太陽に向け、地球にアンテナを向けて、一刻も早く交信が復活するのを祈って。
2006年01月26日。
ようやく地球から1ビットの電波が届く。地球上で微弱な電波を拾い上げてくれたみたいで、やっぱり信じた通りだった!と心の底から喜ぶ。
でも、手放しに喜べなかった。もう、私の背負ったリチウムイオン電池は、過放電で使えなくなりつつあったから。
次にどの部品が故障するか、わからなかったから。
2006年3月04日。姿勢は安定しないものの、通常の通信へと戻ることができた。
《すまない、はやぶさ。地球への帰還を、三年延期せざるを得ない》
通信回復と同時に待っていたのは、冷たい現実だった。
そもそも、私の耐用年数は四年。イトカワに着くのに二年、そしてここから地球まで帰るのに三年。
少なく見積もっても、五年はかかることになる。さらに太陽を回る地球の公転周期の影響で、飛行距離が大幅に伸びることにもなる。
……自分に、できるのか? 既に満身創痍の自分が『約束』を果たせるのか?
《僕たちは、君ならできると信じている》
私は深く溜息をつく。決して苛立ちや諦念からではない。覚悟の吐息だった。
それから目を閉じて、サンプルが入ったカプセルをギュッと抱きしめた。
私は『約束』を果たすために生まれてきた。
だったら諦めない、私は。
――いや。私"たち"は。絶対に。
『約束』を果たすまで。
2007年4月。
私は残された一基のイオンエンジンで地球への巡航を再開した。
《はやぶさ、まだ行けるよ》《待ってるからね》《大丈夫だ》地球から励ます声が聞こえる。
しかし、恐ろしいことにトラブルはこれで終わらなかった。
四基あったイオンエンジンは、度重なる故障によってもう一基しか動作していなかった。
だがその最後の、地球へ帰還するためのメインスラスターのキセノンエンジンD番が、自動停止してしまったのだ。
――このままでは帰還できない。深刻な事態に、再び悩む。
地上からの交信がしばらく途絶えた。恐らく私から送られる数値データを収集し、またみんなの知恵を集めて議論しているのだろう。
やがて、その結果がインサートされてきた。
《スラスターA番の中和器と、スラスターB番のイオン源をバイパスダイオードで使用する。複合運用モードに移行するよ》
……なんだって? これは日本語か?
私は宇宙探査機だから何となくわかるが、呪文にしか聞こえない。
電源とイオン中和器、イオン源の回路を変更するよう指示を受け、まごつきながら順次対応する。
要するに、通常では"ありえない"、"存在しない"回路を使うのだ。
でも私は何となく知っていた。私が開発されたとき。
とある設計者が、周囲の反対を押しのけ、度外視でこの"ありえない"回路を組み込んでいたことを。
これがなければ、きっと、私は……。その設計者の『想い』に胸が熱くなる。
「やった! やったよ!」
イオンエンジンが再び青い炎を噴き出す。
これで、また地球へと向かえる。『約束』へと一歩を踏み出せる。
【帰還 -Return-】
2010年05月12日。私はいよいよ、地球の庭へと戻ってきた。遥か先に、青い地球の姿が見えている。
スタートラッカーはぼやけていた。視界は不明瞭だった。それでも。
――ああ、なんて美しいんだろう。
初めて見たときは何も言葉が思い浮かばなかったのに。
――今なら、言える。美しい。綺麗。素晴らしい、と。この光景をイトカワに見せられたなら。
確かに命は、この星で燦然と輝いていた。美しい声を奏でていた。宇宙からでもわかる。
「帰ってきたんだ……」
そこで私は、故障しかけていた最後のイオンエンジンの火を消した。これからに備えて。
私は今一度、壊れかけた艤装を背負い直した。もう、太陽電池モジュールもロクに動いていない。制服はボロボロで、ほつれたり破れたりしていた。多分、鏡があれば疲れ果てた私の顔が映るだろう。
……でも、もう大丈夫。これで、終わりだから。
《カプセルを、オーストラリアのウーメラという場所に落下させることが決まったよ。政府から許可が下りたんだ》
ウーメラ。一体、どんな土地だろうか?
オーストラリアと言えば、カンガルー? ワラビー?
でもきっと、人里から離れたところなんだろう。カプセルが落ちたら大変だからね。
《ここから先は精密誘導するから気をつけて》
「了解!」
2010年06月13日19時51分。
その時はやってきた。
私はずっと抱きしめていた銀色のカプセルを手に持つ。
16キログラムのそれには、重量には代えられない大切なものが収められていた。
耐熱モジュールでUFO型に作られたそれは、灼熱に耐えて大気圏突破し、パラシュート降下で地上に届く。
……さあ、そのときだ。《カプセル分離!》命令が下った。
「――いってらっしゃい! 『約束』、果たしたよ!」
私は一言かけてからカプセルを手放し、ゆっくりと押して地球へと滑らせた。
イトカワにもらった宝物は、静かに地球の大気へと向かっていった。
《カプセルの分離成功!》《軌道正常! よくやった!》《素晴らしい!》
私は安堵する。そんな賞賛の嵐の中、ひとつのメッセージが届いた。
《――はやぶさ、最後に地球の写真を撮ってほしい》
きっと研究者の人たちが、最後に、私に地球を見せたかったのだろう。私の功績を評して。エッヘン。
私はその言葉通りに、地球の写真を撮った。
でも、もう、カメラもボロボロで。一生懸命この目に焼きつけても、きちんと画像が送信できなくなっていた。
……多分、受け取った側は写真の多数のノイズが入り込み、モノクロに見えているかもしれない。
それでも地球は――美しかった。
あまりに懐かしいその景色に、私は言葉にならぬ安堵を覚えた。故郷が、待っていた。
カプセル分離後、カプセルは大気圏に再突入していった。灼熱に包まれていくのが見える。
――これで『約束』は果たした。
私はふうと息を抜く。長旅、というには余りにも長すぎた。
七年。耐用年数をとっくに超えて、もう私は満身創痍だ。センサーもスラスターも壊れて、とても人工衛星としての活動はできない。太陽光パネルも、もうほとんど役に立たない。
そして何よりも。正確に地球にカプセルを送り届けるルートを選んだ以上、私は軌道を変更できず、地球の重力に抗うことはできなかった。
つまり、私はこのまま、母なる地球へと落ちるしかない。
――これこそが、『最後の約束』。わかっていた。私は、私を待つ運命を。
《君は、大気圏に突入して燃えてしまう。本当にすまない。今までありがとう》《涙が出てくる……》《よく頑張ったな》
「こちらこそ、ありがとう!」
”全て”を終えた私は、”全て”を地球に委ねた。
カプセルを送り出すためには、私が精確に地球に向かっていることが必要だった。
カプセルの後追い、とでも言おうか。私は微妙に高度は違うものの、地球へ向けて降下を始めた。
青き星の大気に触れた瞬間、私は夜空を切り裂く光の矢となった。
炎に身が焦がされ、砕け散り、体が軋む音がする。自己崩壊が始まった。
太陽光パネルが剥離し、鳥の羽根のように散っていく。サンプラーホーンは折れて火炎となった。
まるで稲妻。私は、燃えていた。激しい熱に、無意識に思わず顔を覆う。
艤装が千切れ、光になりながら四方に飛んでいく。
――そして私は、その瞬間だけ、人間になった。
《おかえり、はやぶさ!》
――これでいい。私は『最後の約束』を、果たした。
今日。
私は、誰かの願いを叶える『流星』になろう。
この星に住まう人のために祈ろう。
そして、私の7年1ヶ月、6,000,000,000キロメートルの険しい旅路は無駄ではなかったと。
この地球に生まれて、この地球に還れたことが本当に嬉しかったと!
だから言う。
支えてくれた人たちに、過去と未来に、そして地球に向けて。
「ただいま」
前作の『星間の旅人』ではアメリカの宇宙探査機「ボイジャー1号」を扱いましたが、今回はその劇的な逸話が話題になった「はやぶさ」を元にストーリーを組み立てました。どちらも負けず劣らず、強烈なエピソードを持つ宇宙探査機です。まさしく事実は小説より奇なり。
7年の歳月をかけ、60億キロを飛行し、数々の故障や難題を乗り越え、最後には燃え尽きながらも『約束』を果たす――その姿に、どこか『人間の生き方』を見出したのが本作を書くきっかけでした。
この小説を読み終えたあと、もし夜空に流れ星を見つけたら、どうか少しだけはやぶさのことを思い出していただけたら幸いです。
あの光には、約束を果たした旅人の魂が宿っているのですから。
「おかえり」、と。
最後に、この偉大なミッションを成し遂げた研究者・技術者の方々に、深い敬意と感謝を込めて結びの言葉にしたいと思います。