第三話:直属斥候は、美味しさを分け合うよろこびを知る
任務明けの午後、リシャは医務室の片隅に立ち寄った。
扉を軽くノックし、中の気配を確かめる。
「どうぞ」と声がかかり、そっと扉を開けると、マリナが資料棚の前で帳簿を見ていた。
「あら、リシャ。どうしたの? 何かあった?」
柔らかい声色に、胸が少しだけ跳ねた。
さっきまで何でもなかったのに、急に不安が芽生え始める。
(……喜んでくれるかな)
「マリナ姉、これ……よかったら、食べてください」
リシャは言葉を選びながら、小さな包みを差し出した。
マリナは目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んで手を伸ばす。
「ありがとう。まあ、こんなに良いものを……」
包みを両手で受け取り、包装紙の感触を指先で軽く撫でる。
その瞬間、マリナの目元に、ほんのりと優しい色がにじんだのをリシャは見逃さなかった。
(……よかった)
ホッとし、軽く息を吐いた。
「これ、リシャが選んでくれたの?」
マリナの問いかけには、少し驚きが混ざっていた。
食にあまり興味を示さないリシャが、味の違いを判断するのは珍しい──そう思ったのだろう。
「はい……といっても、教えてくれたのは団長です」
そこで言葉が一度詰まる。けれど、続けた。
「前に団長からいただいた携行食が……その、私にはよくわからないんですが、すごく美味しくて。
それで……一緒に店に行って。これは、そのときに食べて、美味しかったので。マリナ姉にも、と思って」
なぜかうまく言葉が繋がらず、しどろもどろになってしまったが、伝わっただろうか。
マリナはふふっと笑う。
「リシャが美味しいと思ったものを共有してくれて……ありがとう。すごく嬉しい」
ふたりの間に柔らかな空気が流れ、小さな笑みが交わされる。
マリナが他の隊員に呼ばれ、振り向いてそれに返事をする。
「じゃあ、私はそろそろ仕事に戻るね」
小包を胸に抱えながら、マリナが小さく手を振る。
「団長にも、よろしく伝えて」
リシャは静かに頷き、医務室をあとにした。
心の中に、少しだけ、温かさが残っていた。
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数日が過ぎた、ある昼下がりのことだった。
拠点の食堂には、昼時特有の控えめなざわめきが満ちていた。
席を立つ音、椅子を引く音、汁物をよそうお玉の音──いずれも遠く、一定のリズムで繰り返される。
リシャは無言で列に並び、トレイを手に料理の棚を順に見ていく。
──何度か食堂を利用したときは、必要な栄養を満たし、すぐに食べ終えられそうな一皿を選んで席へ向かうこと。ただ、それだけを考えていた。
けれど今日は、ほんの少しだけ、その“いつも”から外れたくなった。
ふと目に留まった小さな皿。「豆と根菜の煮包み」──
豆と刻まれた根菜を練り合わせ、薄く焼いた皮で包んで出汁で煮込んだものらしい。
見た目は地味だが、表面にわずかに照りがあり、湯気の香りがやさしく立ち上っていた。
(豆……。あの美味しい携行食の、素材にも含まれていたような)
実際には違う豆だとわかっていた。けれど、あの味が思い出に残っているのだ。
よそってもらい、広いテーブル席の端に腰を下ろす。
スプーンですくって一口、口に含む。
──薄く焼かれた皮の内側で、素材の輪郭がふわりと混ざり合う。
(……歯ごたえが違う。柔らかいのと、時々、少し硬い)
崩れる音、粘りのある舌触り、混ざる匂い。
以前なら気づかなかったような微細な違いが、今日はやけに鮮明に感じられた。
「あれ、アイゼル斥候。食堂で食べてるの珍しいな」
声をかけてきたのは、斥候の一人──歩哨担当のハールト・セズネだった。
その隣には、同じく副斥候のレイナ・グリースが軽い笑みを浮かべている。
ふたりとも、リシャが第七団に配属されてから、何度か任務で同行したことがある顔ぶれだ。
「……ほとんど利用していませんでした。裏の通気階段とかで、簡単に済ませていたので」
リシャが静かに返すと、ハールトがトレイ越しに身を乗り出すようにして覗き込んだ。
「何食べてるんだ? あ、煮包みか。うまいよな、これ。ホロホロで」
「加減が絶妙なんだよね」とレイナも頷く。
「甘めの煮つけが好きなら、あっちの“いり豆のあめ煮”も美味しいよ。午後に余裕ある日ならぜひ」
それだけ言うと、ふたりは軽く手を振り、別の席へと移動していった。
リシャは彼らの背を見送りながら、そっとひと息ついた。
(……話すきっかけになるんだな、食事って)
そんな当たり前のことを、今さらのように思う。
残りを一口ずつじっくり味わいながら、リシャは静かに食べ終えた。
トレイを戻し、午後の仕事へ向かう頃には、いつもより少しだけ心が軽くなっていた。
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休日の午後、日が傾き始めた頃。
リシャは指定された門前に到着すると、ほどなくしてユージーンの姿を見つけた。
「お待たせしました」
「いや、きみに合わせた時間だ。問題ない」
落ち着いた声に頷くと、ふたりは並んで歩き始めた。
仕事でも私語でもない。ただの私的な時間。
それが不思議で──どこか、心地よかった。
「……この前、言っていたことを覚えている。味のことを、もっと知ってみたいと」
ふと、ユージーンが口を開く。
「はい。……正直、自分でも少し驚いてます」
リシャが小さく笑ったその瞬間、ユージーンの肩がわずかに緩んだ気がした。
「今日、その……楽しみにしていました」
「食感が楽しめる品が多いから、きっと気に入ると思う」
そうして辿り着いたのは、裏通りの一角に建つ石造りの建物だった。
『レーヴェンの窓辺』──
鉄と木で組まれた質素な看板。その隅には、小さな獅子の図案が刻まれている。
木枠の窓には、くすんだ白いカーテン。午後の光をやわらかく遮りながら、店内の静けさを守っていた。
ユージーンが扉を押し開けると、店主がちらりと目を上げ、目線だけで来客に気づく。
ふたりに一礼すると、何も言わずに奥の席へと案内してくれた。
背の高い椅子が視界をさりげなく遮る二人掛けの席。
目の前には、手入れの行き届いた木のテーブルと、小さな棚。
その上には短冊メニューと、数冊の布張りの本が立ててあった。
湯気を立てた白湯が、静かに出される。
陶器のカップに手を添えて、リシャは静かに息を吐いた。
不思議な落ち着きがあった。
ここが、ユージーンが“落ち着けそうだ”と思った場所──共有してもらえた事に、リシャの胸の奥がやわらかく温まっていく。
(好きなものを共有してもらえるって、こんなに嬉しいことなんだ)
ふと、マリナに言われた一言を思い出した。
「こちらを」
布張りのメニューを差し出すユージーン。
リシャはそれを受け取り、そっとページをめくる。
(……どれにしよう)
焼き麦の薄パイ包み、白豆の壺煮、栗の花蜜ケーキ……
メニューに並ぶ名前をひとつひとつ指で辿りながら眺めていく。
自分がこんなふうに「何を食べたいか」で迷う日が来るとは思わなかった。
それだけのことが、どこか嬉しい。
「……これにします。白豆の壺煮」
「豆が好きなのか?」
ユージーンの問いかけに、リシャは少しだけ考えてから答えた。
「……まだ探り探りですけど、食感が好きかもです。ホクホクしていて」
その答えに、ユージーンが小さく頷いた。
「きみが話していたセズネ斥候やグリース副斥候も、そう言っていたな」
「……え?」
「先日の任務での話だ。ふたりが『この間、アイゼル斥候が食堂で食べていた』と嬉しそうに話していた」
リシャは一瞬、言葉に詰まりかけたが、すぐに目を伏せ、頬にかすかな熱を覚えた。
「……そうですか。……なんだか、変な感じです。話題にされるのって」
「だが、きみが隊の中に溶け込んでいる証拠でもある。私は……素直に、嬉しい」
その一言は、思いのほか自然で、まっすぐだった。
注文を伝えると、ユージーンも同じく白豆の壺煮を選び、主食として焼きたての穀物パンもふたつ添えられることになった。
やがて、料理が運ばれてくる。
湯気とともに立ち上る豆と香草の香りが、食欲をくすぐる。
スプーンでそっとすくい、リシャが一口──
「……っ」
無意識に目を見開いた。
噛むたびに、豆のやわらかさと塩漬け肉の旨味がじんわり広がる。
「肉が……口の中で、じゅわじゅわします」
ユージーンもひと口食べて、うなずく。
「淡いが、滋味がある。……これはいい」
「パンとも、すごく合いますね」
二人で並んで皿を囲みながら、あれが美味しい、これも合うと、小さく言葉を交わす。
「……誰かと、食事を楽しめるって、いいことですね」
リシャがふと呟くように言うと、ユージーンがそっと相槌を打った。
その一瞬、リシャの心にふわりと浮かんだ思いがあった。
──この時間を、この人と共有できること。
(……団長と、一緒に美味しいって言い合えるの……嬉しい、かも)
それは言葉にはならなかったけれど、胸の奥にそっと灯る、あたたかい感覚として残った。
食後のカップには、ほのかに甘みを含んだ焙煎麦湯が注がれていた。
リシャはゆっくりとカップを傾け、陶器越しの温かさを両手で味わう。
「……静かで、落ち着きますね」
言葉というより、感想のようにぽつりと漏らす。
ユージーンも頷いた。
「この場所は──騒がしさが入りこまない。食事をしていても、気配が削がれない。貴重な場所だと思っている」
それは、彼なりの気遣いでもあったのだろう。
リシャはその言葉に、静かに目を細める。
「好きです……このお店。また、来たいです」
カップを持つユージーンの手元が、ぴたりと止まった。
見開いた瞳の奥に、わずかな熱が見えた気がする。
リシャには、それが何かまではわからなかった。
──その時、ユージーンの唇がかすかに動いた。
「リシャ」と、ごく小さく、誰にも届かぬほどの声で。
リシャは小さく首をかしげ、顔を上げた。
「……? 今、何か」
「いや。……そろそろ出よう」
ユージーンは目を伏せて立ち上がる。リシャもそれに続いた。
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外へ出ると、空は藍に近づきつつあり、街路の灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
「送る。門まででいいな」
「はい。ありがとうございます」
騎士団の制服を着たふたりが、裏通りを並んで歩く。
交わす言葉は少なかったが、足音は自然とそろっていた。
ふと、リシャが口を開く。
「……今の私、少しずつですけど、“知っていくこと”が楽しいです。
食べることも、感じることも。こんなふうに、誰かとゆっくり歩くのも」
ユージーンはその言葉を、ひとつひとつ噛みしめるように聞いていた。
「……それは、きみにとって大事なことだ。焦らず、ゆっくりでいい。ここで得られるものは、すべてきみの糧になる」
そう告げた彼の声には、どこか誇らしさのような響きが混ざっていた。
胸の奥に響いて、じんと熱くなってしまう。
門が見えてくると、自然とふたりの歩みもゆっくりになる。
別れ際、ユージーンがふと立ち止まり、少しだけリシャのほうを向いた。
「……今日は、ありがとう。きみにとって無理のある時間になっていないなら、良かった」
リシャは少しだけ目を見開き、すぐに首を振る。
「そんなこと……本当に、素敵な時間でした。ありがとうございました」
光の少ない夜道に、短くて静かな会釈が交わされる。
その音のないやりとりが、ふたりの間に温かく残る。
そして──
別れたあとの夜風のなかで、リシャはほんの少しだけ、胸に手を添えた。
(……“また”があるといいな)
そう思ったその気持ちを、ゆっくりと歩きながら噛みしめる。
次の任務も、その次も。
“彼”といることが、きっと、変わっていく。
その気持ちを今はまだ、名前にはしない。
ただ、静かに、静かに。
胸の奥で、灯火のように育てていく。




