第二話:直属斥候は、知らなかった味に触れる
次の休暇に王都へ出る。
その約束は、任務の終わり際にごく自然に交わされたものだった。
当日、リシャは少しだけ早めに集合場所へ向かっていた。
時間を逆算して支度を整えたにもかかわらず、指先はわずかに落ち着かなかった。
軍装はいつも通り。指定されたのもこの格好だ。
私服を考える必要がなかったことに、少しだけ安堵していた自分を、どこかで不思議に思う。
──まだ、待ち合わせの時間には数分あった。
軽く風の抜ける広場の片隅で、彼女は静かに周囲を眺めていた。
王都への往来はすでに多く、馬車の車輪が石畳を削る音が、交差する。
けれど騎士団の制服で立っていれば、誰かが話しかけてくることもない。
やがて、足音がした。
規則正しく、ためらいなく、まっすぐに歩いてくる気配。
目を向ければ、黒藍の外套をまとったユージーンが、時間ぴったりに現れていた。
「……早いな」
落ち着いた声が落ちる。表情に大きな変化はない。だが、その瞳にはごくわずかに、柔らかさが宿っていた。
「支度は済んでいましたので」
リシャが応じると、ユージーンは軽く頷き、すぐに視線を切った。
言葉を交わすことなく、並んで歩き始める。
王都行きの馬車までは短い距離だったが、その間、ふたりはほとんど何も話さなかった。
それでも、不思議と沈黙は気にならなかった。
風が穏やかだったせいかもしれないし、ただ並んで歩くだけの時間が心地よかったのかもしれない。
目的地の名も、どんな場所かも、知らないまま。
それでも今日という日は、いつもとどこか違っていた。
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王都・第二区通り。
中心部からやや外れた一角に、それはあった。
白壁と黒鉄を基調とした外観。
看板はなく、正面の扉にはごく小さく装飾された《LP》の焼き印があるのみ。
だが、この通りに詳しい者であれば、その印だけでどんな店かを察するだろう。
〈ラティル・パシュ〉──
軍関係者や医療従事者が訪れる、高級携行食専門店。
元は王族付きの侍医が設立した薬膳研究所を前身とし、今では軍との共同開発を担う半官営の機関でもあるらしい。
一般兵が足を踏み入れるには、やや場違いにも思える静謐な空間だった。
「ここだ」
ユージーンが立ち止まり、小さく声を落とす。
リシャは思わず足を止めた。
外観こそ控えめだが、扉から漏れ出る空気には張り詰めた緊張があった。
その重みに、軍靴を履いた足がわずかにためらったが、背筋を伸ばし扉に向かう。
無機質な鉄扉が、静かに開かれる。
店内は驚くほど静かだった。
壁面には規則正しく棚が並び、それぞれの棚に美しく整列された携行食が展示されている。
装飾は一切なく、展示札もなく、ただ素材ごとに色分けされた箱が並ぶだけ。
まるで研究所の保管庫のような、整然とした無言の美があった。
入店と同時に現れた白衣の店員が、ユージーンの姿を見て、ごく丁寧に頭を下げる。
名前や階級には一切触れず、無言のまま案内が始まる。
ユージーンの足取りは慣れていた。
その背に並びながら、リシャは視線を走らせる。
視線の先にあるものすべてが、高級すぎるようにも思えた。
この場に自分がいてもいいのか──
そんな疑問が、ふと、喉の奥に引っかかった。
だが次の瞬間、ユージーンが何気ない調子で言った。
「いつも通りで構わない。店の人間も、こちらの階級には干渉しない」
リシャは無言で頷いた。
ふと、目についたのは、以前食べたあの包装に似た焦げ茶色の箱──
金の細い刻印が、照明を受けて淡く光っていた。
(これ……)
ほんの少しだけ、足が前に出そうになる。
「こちらへどうぞ」
白衣の店員が示したのは、店の奥にある一角。
小さな試食スペースのようだった。
ユージーンが軽く頷き、リシャに一歩だけ促すような視線を向けた。
ほんの一瞬の逡巡のあと、リシャは静かに歩を進めた。
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奥の区画は、店内の静けさをさらに際立たせるような空間だった。
小さな白布の台に、数種類の携行食が整然と並べられている。
それぞれの皿には、ひと口大に切り分けられた携行食が一片ずつ置かれていた。
「──このあたりが、先日と同じ〈ノルド・ドーズ〉シリーズです」
白衣の店員が、静かな声で説明を添える。
「新たに展開しているものとしては、果実系を主体とした〈セレナ・ブレンド〉、豆類と穀物を中心とした〈レーヴ・ナッツ〉がございます。
〈セレナ〉は、低糖の果実ピュレを乾燥させ、酸味とミネラル補給を両立させた設計。食欲が落ちがちな高温下の任務に適しています。
〈レーヴ〉は、加熱処理した豆粉と雑穀を三層構造にしたもので、咀嚼時に異なる食感が得られ、満腹感と持続力の向上に寄与します。
どちらも携帯性と即時補給に特化した設計で、戦闘時でも咀嚼しやすい柔軟さを保っています」
言葉だけ聞けば、ただの商品説明。
だがその内容のすべてが、実際に口にする相手とその状況を意識したものだということは、明らかだった。
リシャは、目の前の小皿に視線を落とす。
そこに置かれたひとつの小片──前にユージーンから渡されたものと、同じ包装の断面。
そっと指でつまみ、口に含んだ。
香りが広がる。
やわらかく発酵した豆の甘みと、どこか花のような果実の香りが鼻腔をすっと抜ける。
噛みしめるごとに、素材の異なる層が順に現れ、食感が移り変わっていく。
歯ざわり、香ばしさ、そして最後に残るほのかな甘み。
あの時の味だ──やっぱり、すごく、おいしい。
リシャは目を瞬かせる。
ただ栄養を摂るだけではない。体を維持するだけでもない。
こうして噛んでいるあいだだけ、何かが満たされるような──、静かで温かい感覚があった。
ふと、背後に気配を感じる。
「……もう一種、試してみても?」
ユージーンの声だった。少し控えめに、店員に向けて言う。
店員が無言でうなずき、別の皿──〈セレナ・ブレンド〉の試食片をリシャの前へと差し出す。
「ありがとうございます」
リシャは短く頭を下げ、口に運んだ。
果皮の甘酸っぱさと、乾燥したハーブの香りがふっと広がる。
前のものよりも少し軽やかで、どこか涼やかな印象すらある。
(……味も香りも、全然ちがう。甘いのに……なんだかスッとしている)
驚いたように顔を上げると、ユージーンが静かにこちらを見ていた。
表情には変化はないが、まなざしだけが、どこか柔らかい。
ふと、こんな味を知らずに過ごしてきたことが、少し惜しく感じた。
(……マリナ姉、もしかして、こういうの好きだろうか)
嬉しくなる味に出会えた今、真っ先に分けたいと思ったのは、いつも心配をかけていたあの人だった。
「……これ、マリナ姉……っ、あの、クライン衛生兵へのお土産にしても、いいでしょうか」
ぽつりと、呟くように言ったその言葉に、ユージーンはわずかに目を瞬かせた。
「もちろんだ。……贈り物用で用意してもらえるよう、店に伝えよう」
白衣の店員がさっと身を引き、奥に控えの在庫を取りに向かう。
リシャは、もう一度皿の上の小片を見た。
香り、食感、風味──
そのひとつひとつが、単なる食料や栄養補給ではなく、誰かに喜ばれるように作られたものだと、ようやく理解できた気がした。
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包みは、濃紺の紙に包まれ、銀の細い紐で結ばれていた。
贈答用の印として、店の小さな紋章が刻まれた封緘がひとつ添えられる。
リシャは、それを両手で受け取った。
「……ありがとうございます。とても丁寧にしていただいて」
白衣の店員は一礼し、それ以上の言葉はなかった。
代わりに、ユージーンの方へ一瞬だけ視線が向く。
応じるように軽く顎を引いたユージーンに、店員は静かに身を引いた。
店を出ると、外の空気が少しだけ暖かく感じられた。
王都第二区通り。
石畳の歩道を、行き交う人々の姿がまばらに見える。
遠くで馬車の音がしていた。
足音を揃えて歩き出したリシャは、そっと手元の包みを見下ろす。
手の中の温度と、先ほどの味の記憶が、胸の奥でゆっくり混ざり合っていた。
「……あの、今日はありがとうございました」
少しだけ躊躇いながらも、はっきりと口にした言葉だった。
「私、ああいうお店、初めてでした。
どこか、緊張したけど──でも、新鮮で……楽しかったです」
ユージーンは振り返らず、前を向いたまま、小さく言った。
「それなら、よかった」
言葉は短く、表情も読めない。
けれどその声音には、ほんのわずかな、安堵のような色があった。
リシャは一歩、隣へと歩幅を合わせる。
すこしだけ、足取りが軽くなる。
風に揺れる紙袋が、小さく音を立てた。
「また……いつか、行ってみたいです。
いろんな味、もっと知ってみたいから」
言ってから、自分でも不思議な気持ちだった。
ユージーンはリシャの言葉に頷いたあと、ふと考えるような仕草で足を止める。
「……きみが落ち着けそうな場所を、ひとつ思い出した。
食事処だが、静かに過ごせる場所だ。……どうだろう、興味はあるか?」
「はい、私でよければ……ご一緒させてください」
ゆっくりと頷いたあと、ユージーンが少しだけ笑った気がした。
その歩みは、騎士団の服の音と共に、王都の午後へと溶けていく。