第一話:直属斥候は、騎士団長から誘いを受ける
昼休憩明け、資料整理を終えたリシャは、整えた書類を腕に抱え、執務室を出た。
廊下には足音がまばらに響き、空気は静かだった。数歩ごとに、冷えた壁が音を吸い込む。
目的の部署へ向かって渡り廊下を折れたところで──
「……監察課のヴァイン少佐、異動らしい」
ふいに背後から届いた私語に、リシャの足がわずかに止まる。
「書類上は配置換えだって。でも実際は、権限の一部が制限されるって話」
「上層部にも、記録部署から正式な報告が行った結果だってよ」
聞き覚えのある名が、何気ない雑談に紛れて落ちてきた。
声を潜めるようにして話す隊員たち。リシャは胸に抱えた資料から目を離さなかったが、内容は耳に入ってしまった。
(……やっぱり)
特に意外性はなかった。予感はあったし、実際、あの場での出来事は記録に残されたはずだ。
それでも、処分の名目が単なる「配置換え」とされたことに、一抹の現実味を感じる。
ここはそういう場所だ。証拠があっても、すべてが白黒には分けられないことはわかっている。
けれど──
(それでも、ちゃんと届いたなら、いい)
誰にも聞こえないように、静かに息を吐いた。
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報告書の提出したときも、応対に出た書記官は軽く頷いただけだった。
特別な言葉も、確認の重ねもない。
提出後、控えに押される承認印も、所定の一箇所のみ。
静かに一礼し、その場を離れたリシャは、ほんのわずかに足取りを緩めた。
ユージーンの直属斥候に任命されて以来、自分の書類だけ妙に点検の回数が多くなった時期があった。
一文ごとの再確認、簡易記録への補足指示義務、提出後の再提出──
書式という名目のもと、過度に思える実質的な再チェックが続いていた。
だが、クラウスの件が表に出た頃から、その回数が目に見えて減った。
完全に消えたわけではない。それでも、過剰なものが徐々に引いている感覚は、確かにあった。
(判断が変わった……? それとも、上から何か通達が?)
直接的な声かけはなかった。
だが、些細な空気の変化は、肌でわかる。
不自然に重ねられていた点検が“適切な分量”に戻りつつある。
それはつまり──ようやく、自分の存在が“認められ始めている”と思ってもいいのだろうか。
リシャは淡々と歩きながら、それでもほんの少しだけ、胸の奥で深呼吸をした。
気づかれぬように、ごく小さく。
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この日の任務は、魔獣の越境を防ぐための“境界線再測定”だった。
過去の記録と照合しつつ、最近出現した未登録の踏み跡や、風の流れの変化による通行困難区画を洗い出す。
地形の微細な変化が“新たな魔獣の侵入経路”になる可能性がある以上、定期的な再調査は不可欠だった。
本隊の進路計画と照らし合わせつつ、前衛班として配置されたのが、ユージーンの直轄班。
リシャを含めて五人が選出され、彼女はいつも通り「斥候」としての役目を担っていた。
「……この先、倒木があります。段差を避けて左から」
リシャの声が、一定の距離を保ったまま前方に落ちる。
「確認した。後続、間隔を調整」
その返答が、後方から静かに返る。
発したのは、ユージーン・ヴァルクナー。
任務中、ふたりのあいだに交わされるのは、それだけだ。
呼吸も声量も、まるで定規で測ったように整っている。
すぐその後、後衛に控えていた補佐官が、抑えた声で周囲に指示を伝える。
「段差、左。続いて──転倒注意。狭いので二列維持で」
それを受け、隊列の中央から副官が短く応じた。
「了解。中央班、少し右に」
それぞれの指示は、ごく自然に空気を伝い、誰一人として迷いなく動いていく。
「……風、変わった?」
ふと背後から、小さく補佐官のつぶやきが届く。
リシャはその声に答えることなく、足音を抑えたまま首をわずかに傾けた。
(違う、これは──谷筋に入る前の地形反射)
すぐに進路を変え、背後を気にするそぶりもなく、手信号を送った。
右手を肩口まで上げ、ひと呼吸置いて──静かに、けれどためらいなく右側の木立を指し示す。
風の向きと草の倒れ具合、泥の厚さと重みで、進行方向の危険を読む。
リシャから発した指示は最小限。無駄な声も、振り返る視線も要らない。あとの判断は現場に任される。
ふと気を抜いたところで、背後──自分より数歩後ろ、やや斜めの位置に、ユージーンの気配を意識してしまった。
息遣いではない。歩幅でもない。彼自身が纏う、重厚な雰囲気。
(以前より……距離が、気になってしまう)
そう気づいたとき、何かが胸に浮かびかけたが、すぐに追い払った。
任務中だ、余計なことを考えるな。そう自分に言い聞かせる。
斥候として、今やるべきことだけを考える。
……その意識の中で、ふと耳がとらえた。
「……本隊、迂回ルートに入った。第三報、共有済み」
ユージーンの報告。受信確認の応答。
(……ああ、やっぱり、この人は)
こちらの判断を、迷わず拾ってくれる。
状況を、感情を挟まず正しく読み取り、必要な言葉だけで返してくれる。
その静けさが、ひどくありがたいと感じる。
背中を預けても大丈夫だと、自然と思えた。
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任務を終えたのは、夕方を回った頃だった。
境界沿いの測量ポイントで本隊と合流し、経路上の地形変化や魔獣の痕跡について簡潔な報告を終えた後、ユージーンは「帰投前の記録処理に時間を要する」として、リシャとふたりでその場に残った。
記録用紙と図面の整理。
距離と方角を指す印の修正。
魔導記録具のログ確認と予備通信具の整備。
「──ログ出力、二行目が重複している。書き直しを」
「了解です」
業務中と変わらないやりとり。
だが、他の隊員がいない空間では、それだけで空気の密度が変わる。
資料整理がひと段落した頃、ユージーンが手を止め、ふと視線を上げた。
「……アイゼル斥候」
名を呼ばれ、リシャも顔を上げる。
「休暇日は、すでに割り当てられていたか?」
唐突な問いだった。
「まだ決まっていません。調整中です」
「そうか。……覚えているだろうか。以前、携行食の話をしたときのことを」
ユージーンの声は変わらず落ち着いていたが、その奥にほんの少しだけ、間を測るような静けさがあった。
「じつは、二日後が私の休暇日でな。私用で王都に寄る予定がある。
……その日、あの店に立ち寄るつもりでいるのだが──もし都合がつけば、一緒にどうかと思っている」
視線は正面を向いたまま。無理強いしない言い方をしてくれていた。
リシャは、しばし沈黙ののちに、顔を少しだけユージーンのほうへ向けた。
迷いはない。ただ、言葉を整える時間が必要だった。
「……ありがとうございます。──ぜひ」
その一言に宿っていたのは、控えめな嬉しさと、ほんの少しの照れ。
約束がまだ生きていたという事実が、思いのほか胸に響いていた。
リシャのその言葉を聞いた瞬間、ごくわずかにユージーンの口元が緩んだように見えた。
「なら、待ち合わせは第二区通りの南端。時間は、後ほど伝える」
「了解しました」
すっとユージーンの視線が離れた。
それだけで、また“任務中”の空気に戻っていった。