幕間:騎士団長は、執務室で静かにペンを取る
※ユージーン視点です
初めてリシャ・アイゼルの姿を見たとき、あまりに小柄すぎるとは思った。
王都騎士団・第七団、前線指揮隊。その執務室の扉を開けて入ってきた新任の斥候は、支給された制服の袖がわずかに余っていた。癖のないくすんだ金髪を短く切りそろえ、耳にかけた毛先が頬にかかるたび、細い首筋がのぞいた。
だが、正面を見据えるその目は、迷いも怯えもなかった。名乗った声も小柄な体格に似合わず、芯のある調子だった。
──推薦者は、マリナ・クライン衛生兵。
彼女が書いた報告書を読んでいた。「スラムの路地で魔獣に対して射撃を行っていた人員を保護」「即応性と判断力に長けている」「実地経験においては、記録課程以上の動きあり」。
当然、即戦力と認めるには情報が足りなかった。が、それは入団時の話だ。問題は、ここからだった。
初任務。偵察班への随行。
彼女は、まるで染み込むように動いた。
先頭を取り、風と土と空気を読む。報告も連携も最小限。だが、結果は寸分違わなかった。斥候としての職能を、説明ではなく実演で示していた。
随行していた自分の支援など、途中の一撃を除けば不要だった。あの魔獣との交戦自体、彼女ひとりでも恐らく対処は可能だったろう。
……その夜。
書類に手を伸ばす前、しばし迷ったのを覚えている。
この人材は偶然、ここに来たわけではない。
ただの特例採用などではない。
そう思いながら、初めて個人評価欄に──配属されたばかりの斥候の名を記した。
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数回の任務を経て、単独任務を試すことにした。
斥候としての再検証。いや、違う。
自分自身への確認だ。
──この感覚は、錯覚ではない。
その任務に、自分が随行したのは半ば衝動だった。
部下に指示を出せば済む案件だった。だが、彼女の動きを、自分の目でしっかりと見ておきたかった。
結果は、想定以上だった。
音もなく影へと潜み、空気のわずかな変化を察知し、誰よりも早く敵の動きを掴み、そして仕留めた。
その一連の動きに、言葉を失った。
短剣を布で拭う仕草すら、どこか儀式のようだった。
逆光の中、風に揺れた髪の奥で、伏せた横顔が静かに浮かぶ。
一瞬、目の前の光景が現実感を失った。まるで何か、ただの兵士ではないものを見ているような──そんな錯覚すら覚えた。
報告書には書かない。
だが、書類の余白に──無意識に彼女の名を何度もなぞっていた。
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ある日の昼、彼女の姿を偶然見かけた。
休憩のあいだ、誰も来ない裏路地の隅に腰を下ろし、銀色の個包装を剥がしていた。
軍用携行食の栄養補給バー。味気ないそれを、まるで慣れた手つきで口に運ぶ姿は、静かで、どこか痛々しかった。
ただでさえ小柄で、女性にしては骨ばった細い腕と薄い肩。その体に、必要最低限の燃料しか与えずにいたら──
無理はすぐに、どこかに出る。そう思った瞬間、「温かいものを口にしておけ」と言葉が出ていた。
彼女はわずかに瞬き、小さく頷いただけだった。
それから数日後。
執務の帰り、偶然通りかかった一軒の店の前で、ふと足が止まった。
かつては貴族向けの侍医が開いた薬膳研究所──現在は軍医療部と連携し、機能性栄養食品を扱う半官営の専門店舗。
価格は高めだが、団長級の士官や医療部の軍医たち、あるいは官僚たちが、任務の合間に密かに利用している。
ユージーンもまた、現場指揮官として過酷な遠征任務に就いていた頃、疲弊した隊員や、協力関係にある文官への手土産として何度かここを訪れたことがあった。
脳裏によぎったのは、リシャの姿だった。
食そのものに興味が薄く、効率だけを選ぶような、その姿。
──ほんの気まぐれで、こんなものを渡してしまっていいのか。
──直属とはいえ、特別扱いが過ぎると見られないか。
迷いはした。彼女のこれまでの人生を否定するつもりもなかった。
それでも──
せめて「違う選択肢がある」ということ。効率ではなく、ほんの少しの「満たされる味」があることを知ってほしいと、願ってしまった。
味にこだわった高級品。実戦向けとは言えないが、素材の配合や風味に工夫がある。
彼女にとって、初めての“選ばれた味”になるかもしれない──
そう思い直し、ユージーンは無言のまま商品を手に取り、支払いを済ませた。
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クラウス・ヴァイン。
視察と称して送り込まれた王都参謀監察課の少佐。
彼の主張は理屈としては通っている。だが、彼は現場を見ていない。
現場を、数字と記録でしか判断しない人間は、往々にして“命”を軽んじる。
そしてその懸念は、数日後、現実のものとなる。
偽装された地図情報、不自然な痕跡、現場に残された黒褐色の塊と付着した粉末──
すべてが揃いすぎていた。
明確な証拠こそなかったが、これは「意図的な罠」だった。
しかも、それがリシャを狙っていたとしたら──
胸の奥が熱くなる。次の瞬間、手が勝手に動いた。
彼女の肩を掴み、強く引き寄せた。
魔獣の爪が届く直前。
反射ではなかった。理性でもなかった。
その手は、僅かに震えていた。
呼吸が浅くなり、いつものように冷静に射線を測れない自分に気づく。
……そのとき、殺意すら浮かんでいた。
部下の命を奪うような者が、軍の名を騙る。
──許せるわけがない。
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執務室に戻ると、机上に資料の束が整えられていた。
「報告書と、現場から回収された記録です」
現場に居合わせていた副官──ロルフ・ギルデンが静かに言った。視線は伏せられたままだが、その手は迷いなく資料を差し出してくる。
ユージーンは頷き、無言でそれを受け取った。
罠の痕跡、不自然な地図、現場の土壌サンプル──すべてが、整然とそこに揃っていた。
「……ありがとう。十分だ」
ロルフは短く敬礼し、音もなく部屋を出ていった。
背中に何かを感じた気がしたが、ユージーンは振り返らず、ゆっくりとペンを取った。
指先に、微かな震えが残っていた。
紙の上に落ちたペン先が、最初の一画でわずかに引っかかる。
いつもなら書き出しに迷いはない。だが、このときばかりは違った。
一文字目のインクが、筆圧の強さでにじんだ。
《記録改竄の可能性について、上層部への照会を要請》
《危険行為の疑いがある場合、監察対象に対する再検証を》
《現場にて発見された黒褐色の不審物──粉末を含む果皮状の塊について、外部からの持ち込みおよび配置の意図があった可能性を調査対象とすること》
文字が進むほどに、筆圧が増していく。
紙の上に走らせたインクの軌跡が、いつもよりも僅かに歪んでいた。
それでも、手は止めなかった。
封をした書類の上、掌をあててゆっくりと押さえた。
視線は無意識に、別の書類──
リシャ・アイゼルの名が記された個人記録へ。
この名を、守らねばならない。
彼女はただの部下ではない。
特異な経歴も、静かな気配も、すべてを含めて“今の彼女”がある。
今やそれは、自分の任務の一部でもある。
静かに、立ち上がる。
書類を整え、灯を落とす。
明日、また彼女は任務に出る。
自分もまた、それを見届ける立場であり続けたい。
──今は、まだ。それだけだ。
だが。
あの目を見てしまった以上。
あの静けさと強さと、ひたむきな動きに心を奪われてしまった以上──
もう、目を逸らすことは出来ない。