第五話:騎士団長と直属斥候は、仕掛けられた罠と対峙する
監察官が姿を現してから、四日が経った。そのあいだ、クラウスは正式な通達により、前線任務に“視察”として随行していた。
表向きの名目は「現地業務の透明性と記録精度の確認」。だが、誰の目にもその目的がリシャに向いていることは明白だった。
出発前、仮設の指令前通路で、リシャが記録用の端末を確認していたときだった。
背後にわずかな気配──そして、わざとらしくゆっくりと靴音が近づいてくる。
「……思ったより小柄だな」
いきなり落ちた言葉に、リシャは振り返る。
クラウスが近くに立っていた。手には書類を挟んだ板を持ち、視線は斜めに見下ろしたまま、評価するように動かしている。
「記録端末、そのモデルは慣れているか?」
「はい。先の任務でも同型を使用しました。操作に問題はありません」
「そうか」
書類をめくる手が止まり、クラウスの指がリシャが持つ端末の天板を“トン”と軽く叩いた。
端末が揺れ、持つ手が震えた。それはまるで威圧の仕草だった。
「……ずいぶん丁寧に扱うな。推薦出身にしては、現場慣れが早いようだ」
声は平坦、だが言葉の選び方に明確な意図があった。あえて“推薦出身”という単語を使い、その立場を“お前は特例だ”として意識させるための仕掛けに思えた。
リシャは表情を動かさず、短く応じた。
「そう見えるなら幸いです。……私は現場に出る以上、“誰の直属か”を理解して動いています」
クラウスの目が細くなる。
わずかに首を傾け、肩越しに一歩踏み出す形で、リシャとの距離を詰めてくる。
「……自分の立場をよく理解しているというのは、結構なことだ。ただ、理解しているだけでは務まらないのが“直属”という位置でもある」
リシャは言葉を返さず、足元をわずかに引いて距離を保つ。
──この人は、確かに偉いのだろう。だが、ユージーンとは全然違う。
クラウスは“立場”で人を測ろうとする。けれどユージーンは、肩書や経歴に関係なく“現場での働き”を見てくれる人だ。
クラウスが鼻を鳴らして通路を離れたあと、リシャはもう一度、端末の画面を確かめた。
任務はまだ始まっていない。だが、すでに“何かを測られている”感覚が、皮膚の下で静かに動き始めていた。
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この日、リシャはユージーンを含む小隊とともに、山地方面の地形調査に向かっていた。
気温はやや高く、風は湿っていた。靴底に湿泥がまとわりつき、葉裏に潜む虫がたびたび足元を横切る。
「──後続、間隔取りすぎです。見えますか?」
リシャの声に、後方の補佐官が軽く手を上げて応じる。そのやりとりを、さらに後ろの岩陰からクラウスが黙って見ていた。
無言。だが、視線は明らかに監視の色を帯びている。
歩調はわざと半拍ずつずらしているようだった。まるで、すべての行動を“検証するための素材”として記録しているかのような、値踏みするような足音。
(……ああいう目は、味方に向けるものじゃない)
リシャはそう思った。敵を見る目か、あるいは失敗を待つ目だ。
ユージーンは一度も彼に向き直らなかった。黙って進路を示し、黙って判断を伝える。視察官であろうと、隊員であろうと、扱いは変えない。
途中、野営地予定地の整地と測量を手短に済ませ、魔獣の痕跡なしを確認。
小さな起伏を越えた場所で、ユージーンが短く言った。
「ここまでで一区切りにする。後続は戻れ。斥候班と記録担当だけ、東側を一巡して帰投予定だ」
「……判断の区切りが早すぎませんか?」
小さく、クラウスの声が落ちた。だが、誰も振り返らなかった。
ユージーンは軽く後ろ手を上げ、「危険予兆と進行効率を鑑みた判断です」とだけ返した。
説明でも、反論でもない。報告という名の遮断。
その日、任務は何事もなく終了した。
撤収の準備が整うころ、クラウスがひとりだけ周囲と少し距離を取り、書類を軽く整えながら言った。
「……判断に値する情報が、まだ十分とは言いがたい。しばらく様子を見させてもらいますよ」
口調はあくまで穏やかだったが、その目元には笑っていない笑みが浮かんでいた。
一拍の間。返答を求めるような素振りもなく、彼は踵を返して歩き去った。
リシャはその背を見送るだけだった。ユージーンも、表情ひとつ変えずにそれを見ていた。
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クラウスが任務に同行するようになって、この日は五度目の遠征だった。
準備区域で荷物の確認をしていたリシャのもとへ、ユージーンが歩み寄る。
「……アイゼル斥候、これを持っていけ。食べるのは任務後でも構わない」
そう言って差し出されたのは、一口サイズの小さな携行食だった。
見慣れた軍支給品とは異なる、濃い茶色の包み紙。表面には金の箔押しで、小さな紋が刻まれていた。紙質は厚く、指先でなぞれば、かすかに凹凸が感じられる。
(……見たことない包装)
リシャはすぐに礼を言おうとしたが、それより先に、わずかな好奇心で封を切った。
香りが、違った。鼻腔にすっと抜ける控えめな甘さに、ほのかに香ばしさが混ざる。
きなこを思わせる豆の風味に、かすかに果実の香りが重なっている。歯ごたえは軽く、それでいて層の違う食感が口の中で交錯し、意外なほど満足感があった。
いつもの任務用とは違う。これは栄養を補うだけではなく──味わうことを前提につくられていた。
「……っ、何だかすごく、色んな味……」
見開いた目を輝かせ、驚いたように呟いたリシャを、ユージーンは黙って見ていた。
そのまなざしはほんのわずかに和らぎ、目元には安堵の色が差している。
一口を時間をかけて食べ終えたリシャが、姿勢を戻したところで、ユージーンが静かに告げた。
「今日は、おそらく何か仕掛けてくる。昨晩、動きを確認した……気を抜くな」
「……了解しました」
リシャは身を引き締め、いつもの斥候用装備を再確認した。
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任務開始から間もなく、違和感はすぐに表面化した。
当初の予定では、峡谷沿いを半周しながら補給路候補地の確認を行うはずだった。
だが、渡された資料には、明らかにおかしな点があった。
「……この経路、斜面の記録と一致しません。
先週の測量では、ここは崩落の進行があって通行困難のはずです」
リシャが記録端末を見ながら、すぐに異常に気づく。
風の通り方、草の倒れ方、足元の水気──現場のすべてが、情報と噛み合わない。
「補正が入った記録じゃないのか?」
補佐官のひとりが問う。
「補正済み記録は別資料として添付される決まりです。これは最新とされてるはずなのに、内容が古い」
リシャの口調は冷静だったが、その言葉の中には確かな疑念が含まれていた。
ユージーンが、後ろから端末を覗く。
「位置確認と、出没情報を洗い直せ。
必要があれば、南側へルートを変更する」
「了解しました。……ただ、痕跡が変です」
リシャは低い声で続けた。
「迂回ルートの痕跡が新しい。逆に、安全とされているこっちの道は、踏み荒らされた跡が集中してます」
まるで、危険を“隠すように”記録から消されているような情報操作。そして、進むべきではない方向へ“誘導する”ためのルート構成。
現地の風と匂い、痕跡の分布──
それらが全て、静かに「違うぞ」と囁いていた。
ユージーンはわずかに顔を上げ、後方の隊列を見る。そこには、変わらぬ無表情で歩くクラウスの姿があった。
「……アイゼル斥候。記録の配布は、誰の確認を経た?」
「記録係経由で、監察課から提出されたログに基づくとのことです」
「ふむ」
それだけ言って、ユージーンは黙った。
リシャは少しだけ目を伏せて、深く息を吐いた。
(たぶん、団長も気づいてる)
けれど、それでも口に出さず、今は進む。
見えない敵を視線で測るのではなく、足元の情報だけで判断する──それが今の任務だった。
午後の風が湿っている。
その中に、かすかに嗅ぎ覚えのある匂いが混じっていた。
木の実の匂い。果皮のような甘さ。
──魔獣が好む匂いだ。
(……罠か)
言葉にせず、指先で銃の安全装置を確認した。
次の瞬間、風が止まり、空気が静まり返った。
進行ルートを変更し、岩場を回り込んで谷沿いに降りた瞬間だった。
リシャの皮膚感覚が、風の流れに異物を捉えた。
──音が、ない。
鳥の声も、獣の気配も、風の揺れさえ不自然に断ち切られている。
「……おかしい」
ユージーンに伝えるよりも早く、低木の奥、影から“それ”が動いた。
魔獣。中型種、単体ではない。
本来このルートに出現するはずのない危険個体だった。
「三、左斜面!」
リシャが叫ぶと同時に、ユージーンが即座に横に展開する。
「右、高位個体あり。迂回を誘導──」
「私が前、引きつけます!」
ユージーンとリシャの言葉が重なる。
そこには、呼吸のズレはなかった。
リシャが斜面に滑り込み、視線と動作で群れの中心に注意を向ける。
先頭個体が反応し、牙を向けて突進してきた。
その瞬間、後方斜め上──木立の影から
ユージーンの放った光弾が魔獣の左肩を撃ち抜く。
動きが一瞬崩れたところへ、リシャが正面から回り込む。
「右、もう一体──!」
ユージーンの声が飛び、リシャが身を低くして銃を構える。
魔獣の足元、踏み込み直前の一瞬を狙って撃ち抜く。
着弾はわずかに逸れたが、その隙にユージーンが別角度から重ね撃ちを放つ。
衝撃で体勢を崩した獣が、斜面にのたうち倒れる。
銃口を下げる前に、もう一体が頭上から跳びかかった。
重さと殺気をまとった気配が、リシャの真上から落ちてくる。
「……っ、下がれ!」
瞬間、ユージーンの左手がリシャの襟を掴んで引いた。
咄嗟の動作。
普段の彼からは想像もつかないほど、荒っぽく──ほとんど引き寄せるような力だった。
リシャは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
肩越しに感じる強い腕の力と、予期しなかった距離の近さに心臓が大きく跳ねる。
「チッ──」
小さく舌打ちが落ちる。
抑えきれない怒気。
それは敵に対してか、それともこの状況そのものにか。
ユージーンの舌打ちで我に返ったリシャは、すぐに右足を逆方向へ滑らせ、肘で体勢を切り返す。
弾丸はすでに装填済み。反動も想定済み。
心拍が戻るより早く、引き金を引いた。
着弾。
獣の顎が開くより先に、斜めからの一閃が顎下を貫いた。
風が強くなっていた。
斜面の上から乾いた砂が混ざり、視界がにごる。
地面には倒れた三体の魔獣──どれも異様に興奮しており、傷を負ったにもかかわらず攻撃をやめようとしなかった。
「……通常より殺気立っていた」
リシャが呟く。
匂いのもとに近づいて確認すると、岩陰や草木の間に黒褐色の乾いた塊が散っていた。
魔獣が好む果皮に似た匂いがかすかに残っていた。
「……これは」
リシャが拾い上げると、塊の中に粉末状のものが混ざっている。手袋越しでもわかるほど乾いていて、妙に粒が細かい。
崩れた岩陰──不自然な角度で転がる黒褐色の塊と、付着した粉末状の何か。
その正体は今の時点ではわからなかったが、人の手が加えられているように思える。
(……明らかに不自然だ。こんなものが、こんなところに)
ユージーンがすぐに横へと回り込み、落ちた塊を確認すると後方に声をかける。
「ヴァイン少佐。道を戻す。調査記録の精査が必要だ。
現場記録との齟齬が多すぎる。……ついでに、刺激薬物の使用に関する申請記録も確認したい」
クラウスは無言のまま一歩前へ出て、ちらりと視線を向ける。
「そちらで回収した物品は、確認のため、まず私に提出を……」
「提出は、記録部署を通します。公文扱いにしなければいけませんので」
ユージーンの声音は変わらなかったが、そのまなざしは鋭かった。
静かに一歩、クラウスとの距離を詰める。
その体格は、ただ立っているだけでも圧がある。黒藍の外套の下に沈む胸板と肩幅が、否応なく空気を制していた。
眼光はわずかに細められ、まるで一点に“標的”を定めるように──殺意すら滲む冷たい威圧が、無言のまま突き刺さる。
「──あえて申し上げておきますが」
距離を一歩詰める。
「任務の本質を履き違え、隊の人間を危険に晒すような行為があれば、私は断じてそれを見過ごさない」
殺気をはらんだまま、もう一歩。
「それをどうか、お忘れなきよう」
「……っ」
クラウスの頬が引きつる。返す言葉もなく、視線を逸らすことすらできないまま一瞬だけ立ち尽くす。喉が上下に動き、無意識に息を詰めていた。
その後、無言のまま現れた副官と補佐官に軽く肩を押され、クラウスは半ば連れられるようにしてその場を離れていく。
風が抜ける。
その場に残ったのは、疲れ果てたふたりだけだった。
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風が、ようやく静かになった。
誰もいない山の外れ、崩れた岩陰のそば。
さきほどまでの余熱が、ようやく遠ざかりつつあった。
「……きみを、危険な目に遭わせた」
ユージーンの声が、落ち着いた静けさの中で響いた。
「私の判断が不十分だったせいだ。
まだ配属されて日も浅いきみを、直属として任命した私の責任だ。
変に目立たせるような形になった。
その結果、危険に晒した──本来なら、もっと私が慎重に動くべきだった」
語尾は低く、その言葉の芯には明らかに悔いと自責があった。
リシャは首を振ろうとして、すぐに止めた。
目の前のユージーンが、まだ何かを言おうとしているのがわかったから。
「……ただ」
彼の視線が、こちらに向く。
淡い蒼鉄色の瞳が、まっすぐにリシャを捉えていた──
その奥に、ごく微かに、抑えきれない熱が揺れていた。
「それでも、きみの働きを、もっと見ていたくなった。
無謀な行動に見えても、そこにある判断を信じたくなる。
──おそらく私は、もう、目を離せないんだろう」
それきり、言葉が途切れた。
リシャの顔を見つめたまま、ユージーンの右手がわずかに動く。そっと伸ばされかけた指が、途中で止まり──静かに引っ込められた。
その仕草に、明確な「ためらい」と「迷い」が滲んでいた。
リシャの胸に、ぽつ、と熱が灯る。
それは身体のどこでもなく、ただ深いところで、音もなく灯った。
「……さっき、庇ってくれたこと」
声にしようとした瞬間、喉が震えた。先の戦いよりも緊張しているのは気のせいだろうか。
けれど、彼にはきちんと伝えたかった。
「ありがとうございます。
あのとき、引かれなかったら──たぶん、私は」
リシャはそっと、引っ込められたユージーンの右手を取った。
手袋越し。けれど、その手はたしかに温かかった。
骨格が違う。熱量も、厚みも、安心感も。
思っていたよりも大きいその手の骨ばった部分を、リシャはほんの一瞬、無意識のうちに確かめるように触れた。
反応するように彼の手が動いて、何だか嬉しい気持ちになる。
そっと、まなざしを上げる。
ユージーンの目と、正面からまっすぐに視線がぶつかった。
「……見つけてくれて、ありがとうございます。
ちゃんと、あなたの目で見て、判断してくれて……嬉しかったです」
言いながら、リシャはその目を逸らさなかった。
恥ずかしさも、躊躇いもあった。けれど、それよりも、今はちゃんと伝えたかった。
ユージーンは、リシャを穏やかな顔で見つめ、ゆっくりとその手を包むように握り返す。
しばらく何も言わずにいたが、やがて静かに──けれど、ごく自然に言った。
「……次の休暇、王都に出る予定がある。
例の携行食、取り扱っている店を知っている。
……よければ、案内する。味の好みに、合うものが他にもあるかもしれない」
リシャはそのままユージーンを見つめ続け、目を瞬かせる。
そして、小さく──けれど、確かに頷いた。
「……ぜひ。その……行ってみたい、です」
言ってから、ほんの少しだけ視線が泳いだ。
それは恥ずかしさを隠しきれない、静かな期待の揺らぎだった。
胸の奥で灯った熱が、まだ消えずに、そこにあった。
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——任務中には、感情を持ち込まないこと。
それがずっと、当たり前だと思っていた。
でも、もしこれが“その外側”にあるものなら。
名前のないこの気持ちを、少しだけ、手放さずにいられるかもしれない。