第十六話:騎士団長と直属斥候は、これからも小さな日々を積み重ねていく
ふたりで「家族になろう」と話した夜の静かな余韻のあと、ユージーンはリシャと相談し、両親に宛てて手紙を書いた。
長く独りでいたこと。ようやく心から共に在りたいと願う相手に出会えたこと。その相手が、複雑な境遇を生き抜いてきた軍属の女性であること──飾り気のない言葉で、簡潔に綴っていく。
数日後に届いた返事は、温かかった。
ユージーンが家族を持ったことを喜び、落ち着いたらふたりで顔を見せに来てほしいと記されている。受け入れてもらえたのだと理解した瞬間、胸の奥に小さな光が灯り、家族に憧れていたリシャの目は、自然と潤んだ。
「……行こうか、手続きに。君がよければ、今週末でも」
封筒をそっと閉じたユージーンが、微笑みながら低い声でそう告げる。
「その……明日、私の復帰日なんですけれど、午後から勤務なんです。
午前は念のため休むように、とギルデン副官が調整してくださっていて。引き継ぎや書類整理も午後なので、午前中に不在でも支障はなくて」
「……ふむ。私の方で午前の調整を入れれば、手続きを終えられそうだな」
ユージーンは、頭の中の予定を確認するようにわずかに目線を上げ、「このあと一報入れておくか」と小さく呟いた。
「明日にしよう」
短くそう言ってから、リシャの方へ向き直る。
「せっかくなら、きみの初日に重ねたい。……覚えておきたい日になると思うから」
それは一日まるごとの休みではなかったが、これからの未来を共に歩むために欠かせない、ひとつ目の一歩だった。
「じゃあ……当日は、朝食を済ませてから」
「……はい、そうですね。食べてから、行きましょう」
ユージーンの家の居間には、淡い光が落ちていた。
夜は静かに更けていく。その時間さえ、どこか温かなものに包まれているように思える。
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朝食を終えたあと、ふたりは王都の中心街へと足を向けた。
その日、空は薄曇りだった。
光は射しているのに、陽差しはどこか輪郭がぼやけていて、ときおり風だけが鋭く通り抜けていく。
制服の襟元に風が差し込み、汗ばんだ肌に布地がぴたりと貼りついた。
手袋をしていない指先にも、湿り気を含んだ空気がまとわりつく。ふと立ち止まると、どこか遠くで蝉のような羽音が響いていた──街の生活音なのか、ただ耳が敏感になっているだけなのか、自分でもよくわからない。
南の行政区にある民間の家族登録を扱う庁舎は、木枠の窓や手入れの行き届いた鉢植えが並び、暮らしに馴染む穏やかな雰囲気を漂わせていた。
受付の空気もやわらかく、ここには人々が、それぞれの「家族のかたち」を記録に残しに来ているのだと自然に伝わってくる。
案内されたカウンターで、リシャはユージーンの隣に立つ。
少し前なら緊張して一歩引いていたかもしれない。けれど今は──隣にいることが、ごく当たり前の位置に感じられた。
「こちらがご記入いただく用紙です」
差し出された書類には、「リシャ・アイゼル」の隣に「新たに使用する姓」の欄が設けられている。
その文字を見た瞬間、ペンを持った手がわずかに止まり、リシャは隣を見上げた。
ユージーンは、やわらかく微笑んでいる。その眼差しは、何ひとつ強いることなく、ただ「大丈夫だ」と静かに告げてくれていた。そのまなざしに背中を押されて、リシャはゆっくりと新しい名前を書き記す。
《リシャ・ヴァルクナー》
ぎこちなくも丁寧に綴られた新しい名前が、紙の上に静かに浮かび上がった。
「確認いたしました。……おふたりとも、おめでとうございます」
提出を受け取った係員は、笑顔で一礼する。
民間の庁舎でこんなふうに祝われる日が来るとは、かつての自分では想像もしなかった。その一言が、胸の奥にそっと明かりを灯す。
庁舎を出ると、淡い光が雲の切れ間から降り注いでいた。
頬に触れた風も、朝より少しだけあたたかい。
ユージーンが、リシャの手をやさしく握る。
リシャもまた、その手を包み返した。
ふたりの名前は、正式な記録として残された。
未来へと続く道が、少しずつ、やさしく形を成しはじめている。
⸻
──民間での手続きが終わったのは、まだ午前の光が柔らかな時間帯だった。その余韻を胸に残したまま、ふたりは騎士団本部の管理棟を訪れた。案内された「人事申請課」の扉の前で、ユージーンが軽くノックをする。合図とともに扉を開け、リシャと並んで入室した。
奥にいた係官が顔を上げ、ふたりの姿を認めると、わずかに姿勢を正す。
「ヴァルクナー団長、お疲れさまです。……本日は、家族関係の申請ということで?」
「はい。私と、アイゼル斥候との間で正式に家族制度の申請を行います」
その一言に、係官が小さく目を見開いたように見えたのは、気のせいではなかったかもしれない。だがすぐに、慣れた所作で帳簿を開き、用紙を取り出して机の上に並べた。
「軍属間の第一親等として処理いたします。団長からご署名を」
ユージーンは無言で頷き、万年筆を取って迷いなく署名する。その横顔には、どこか誇らしげな光が宿っていた。書き終えると彼はリシャをまっすぐに見つめ、目だけで「大丈夫」と伝えてくる。
「きみの番だ」
その声に背中を押され、リシャも席に着いた。少しだけ手が震える。それでも、隣に並んだユージーンの名が、ぬくもりのように視界の端にあった。
──私は、ちゃんと望まれて、ここにいる。
そう思いながら、《リシャ・アイゼル》と丁寧に書き込んでいく。
「これにて受理されました。手続きは以上となります」
係官は用紙を手早くまとめ、帳簿を閉じると、一礼して奥へと戻っていった。民間での手続きと比べても、あっけないほど淡々としている。本当にこれで済んだのだろうか──そう思った瞬間、リシャは不意に不安を覚え、隣を見上げた。
「大丈夫。ちゃんと無事に終わっているよ。……さあ、出ようか」
ユージーンはその気配にすぐ気づき、いつもよりやわらかな声でそう告げると、そっとリシャを扉の方へと促した。
ふたりで廊下へ出る。
足音が遠ざかるのを待ってから、ユージーンは周囲に人がいないことを確認し──隣に立つリシャの髪へ、やさしく手を伸ばした。
「ありがとう。これで、私たちは家族になれた」
その言葉に、リシャは小さく頷き、静かな微笑みを返した。
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詰所の扉をくぐった瞬間、乾いた空気が肌を撫でた。窓辺の硝子は薄く曇り、陽差しは届いているのに、どこか冷たさを孕んでいる。床に射す光の輪も、小さく淡かった。──気づけば、季節はまたひとつ巡っていた。
(……長いこと、不在にしてしまったな)
入り口脇に置かれた書類棚は見覚えのあるままだが、新しい張り紙や指示表が加わり、ささやかな変化が積み重なっている。隊員たちの私語や足音が交差する中、静かに歩を進めていくと──ふと視線を感じた。
「おかえり、アイゼル斥候。具合はもう平気か?」
「はい。……ご迷惑をおかけしました。本日から、復帰いたします」
詰所に足を踏み入れた瞬間、ロルフ・ギルデン副官が穏やかな笑みで迎えてくれた。
赫焔討伐以降の記録や再警戒の指示に目を通していると、やがて周囲の隊員たちが次々と声をかけてくる。
倒れてからしばらく戻れなかったことへの気遣い。灰の群れの中で命拾いした、と笑いまじりに礼を告げる声。伝説のように語られている武勇談に、リシャは戸惑いながらも頭を下げた。
自分の行動が、知らぬところで誰かの記憶に残っていた──その事実が、妙にくすぐったく、そしてあたたかかった。
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《レーヴェンの窓辺》には、小さなランタンの光がいくつも灯っていた。窓際の席からは、ゆるやかに揺れる灯火越しに、静かな街並みが見える。
マリナをこの店に誘ったのは、今回で二度目になる。最初は、ふたりが恋仲になったことを伝えた日。今夜は、その続きの報せを伝えるために、マリナの都合に合わせて日を決めていた。
マリナは四人掛けの空いた片側の席に腰を下ろし、店主に軽く会釈してから、落ち着いた声で言う。
「いいお店ね、やっぱり。……静かで、安心するわ」
「ユージーンさんが、以前から時々来ていた店なんです。私も、何度か連れてきてもらっていて。──この前、季節のスープを頼んだんですけど、すごく美味しくて。今日も、まだあればいいなって、楽しみにしてたんです」
少し誇らしげにそう話すと、マリナは目元を緩めて小さく笑った。
「ふふ。じゃあ、今日は“大事な話”にぴったりの日かしら」
その言葉に、リシャの肩がわずかに跳ねる。横に座るユージーンが、静かに頷くのが視界に入った。
「……はい」
リシャは、呼吸を整え、まっすぐにマリナの方を見つめる。
「私たち……先日、正式に手続きを終えました。騎士団の方も、民間の届けも。……私の名前は《リシャ・ヴァルクナー》になりました」
その響きを自分の口から発するのは、まだ少しだけ照れくさい。けれど、確かにそう名乗れることが、何よりの誇りだった。
ユージーンが隣で、穏やかに言葉を継ぐ。
「ようやく、正式に“家族”になれた。──報告ができて、嬉しく思う」
しんと、テーブルの上に沈黙が落ちた。それは決して重たいものではなく、あたたかく、静かな沈黙だった。
「そう。……おめでとう」
マリナの声は、ゆるやかで優しい。
「……いい響きね」
少し間を置いてから、マリナがぽつりとこぼした。
「リシャ・ヴァルクナー。……なんだか、すごく似合ってる」
その響きを噛みしめるように何度か繰り返し、ふっとやわらかく微笑む。声は穏やかだが、その目元にはうっすらと潤みがにじんでいた。
両手がテーブル越しに伸びてきて、リシャの手をそっと包む。
「……初めてあなたに会ったとき、あんなに小さな背中で、誰にも頼らずに立っていた子が──今、こうして、自分の意志で、大切な人を見つけて、人生を歩もうとしている。……ほんとうに、すごいことだと思う」
リシャは、息を飲んだまま動けなかった。その言葉の一つひとつが、胸の奥の柔らかい場所を、ゆっくりと溶かしていく。自分の歩みが、誰かの記憶とともに在ることが、こんなにもあたたかいなんて──と、初めて実感していた。
「ありがとうございます……」
言葉が震えないよう、ぎゅっと唇を噛む。視線の端で、ユージーンが何も言わずにリシャを見ている気配を感じた。
「これから先も、きっといろいろあると思うけど。──何かあったら、いつでも話してね」
「はい。……本当に、ありがとうございます」
店内の灯りが、ワイン色のカップを淡く照らしていた。手を包まれたまま、リシャはゆっくりと呼吸を整える。この人に報告できて、本当によかった──心の底から、そう思った。
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──それから数日が過ぎ、再び任務に戻る空気が静かに団内に満ち始めていた。作戦会議室には、報告直後のわずかな余韻を残しながらも、次の任務に備える静けさが広がっている。
この日のブリーフィングは、翌朝から始まる広域巡察任務に向けた最終確認だった。場所は第七団・前線指揮隊の中でも中規模の控室で、参加しているのは主に現場を任される指揮層と、直接運用に関わる選抜隊員──副官のロルフ、斥候のハールトとレイナにカルム、記録係のサラの五名である。
任務に向けた確認事項の共有と進行が一通り終わり、ユージーンが全体に目を配ったあと、小さく息をついた。
「……最後に、私から一つ、報告がある」
その言葉に、控室の視線がふたたび一点に集まる。ユージーンは特別に感情を込めることもなく、淡々とした調子で言葉を継いだ。
「隊内でもすでに察している者もいると思うが、私事に関する報告だ。アイゼル斥候と私は、かねてより交際を続けていたが──先日、正式に婚姻の手続きを完了した」
淡々とした口調のなかにも、誠意をもって伝えようとする意志がこもっている。その場にいる者たちに向けた報告であると同時に、今後の業務上の立場を明確にする責任を帯びた言葉だった。
リシャもまた、隣に立ち、一歩前に出て深く一礼する。
「私たち二人は、騎士団での手続き、および民間での婚姻登録を済ませました。
私の戸籍上の名前は《リシャ・ヴァルクナー》となりますが、職務上ではこれまで通り《リシャ・アイゼル》として務めてまいります」
声量は控えめだが、その語調には曖昧さを許さぬ意志と、静かな誠実さを込めたつもりだった。
ユージーンは短く一礼し、続けて静かに言葉を紡ぐ。
「この件は、私個人の判断で進めたものだ。今後も任務における方針や人事には、これまでと変わらぬ公正さで臨む。そして、任務においては私情を挟まず、これまで通りの規律で進めていく。だから──配慮も遠慮も必要ない。各自、これまで通りでいてくれればそれでいい」
言葉少ながら、それ以上の説明は要らなかった。この場にいる者たちにとって、それがどれほどの意味を持つか──皆が理解している。
一拍置いて、最初に口を開いたのはロルフだった。
「……そうか。驚きはないな。報告をありがとう。ヴァルクナー団長、アイゼル斥候」
その口調は落ち着いていたが、ほんの少しだけ口角が緩んだのを、リシャは見逃さなかった。
「めでたいことだよ、なあ?こっちは命のやりとりばっかだから、こういう報告があると空気が緩むってもんだ。二人とも、お幸せにな」
ハールトが笑いながら言葉を継ぐ。リシャの方を見て、やんわりと目を細めてくれた。
「斥候任務は過酷だからね。……でも、二人が助け合ったり、支え合ったりしている姿は、任務中でも何度も見てきたよ。あの時、知ってさすがに驚いちゃったけどさ。案外すんなり納得できた」
レイナは、そう言ってにこやかに頷いている。
言葉のひとつひとつが、まっすぐに胸へ届いた。
リシャは小さく息を吸い、改めて姿勢を正す。
「……ありがとうございます。これからも、斥候として、責任をもって務めます」
控室の片隅、少し離れた場所では、サラが笑顔で拍手を送っていた。火傷を負った腕にはまだ処置が施されており、実際には片手だけだが、それでも精一杯の祝福を示そうとしてくれている。
その隣のカルムは、最後まで何も言わなかった。それでも一度だけリシャとユージーンの方を見て、数秒の静止ののち、何事もなかったようにベルトの調整へと戻っていく。それだけのことだったが、それはきっと、カルムなりの受理なのだろう。
解散の合図のあと、各々が次の準備へと散った。
日常が、何事もなかったかのように、ふたたび流れはじめる。
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ユージーンと家族になり、《リシャ・ヴァルクナー》としての暮らしが始まって──季節がひとめぐりしようとしていた。
少しずつ料理を覚え、夕食の支度も自分ひとりで整えられるようになった。
客間だった部屋には私物が増え、壁際の棚には季節の花が並ぶ。夜になれば自然とユージーンの部屋で過ごし、同じベッドで眠ることが当たり前になっていった。
任務はまた訪れる。
緊張も、不安も、戦いも、きっとこれからも続いていく。それでも『帰る場所』がここにあると信じられるだけで、ふたりの歩みは確かなものになっていた。
これからも、この手を離さずに。
明日という日を、ともに迎えながら。そしていつか、ふたりだけではない未来を、そっと思い描きながら。
ふたりの隣に、もうひとつの笑い声が生まれる日が来たら──
そんなふうに思う夜が、最近はときどき、ふたりのあいだに訪れている。




