第十五話:騎士団長と直属斥候は、同じ未来を思い描く
ユージーンの家での療養を始めてから、二週間と少しが過ぎた頃だった。
あの日、医務室の扉をくぐってからの時間は、不思議なほど穏やかに流れていた。薬と食事と眠りに満ちた数日を越え、少しずつ歩けるようになり、ようやく体も思うように動くようになってきた。今ではほぼ平常時と変わらぬ動作ができるまでに回復していたが、ユージーンは最後まで油断せず、毎朝リシャの様子を一通り確かめてから、奥にある書斎へと入っていった。
「午後に少しだけ本部へ顔を出す。何かあったらすぐ戻る」
それがこの数日の習慣だった。書斎の扉が閉まる音と共に、リシャは少し遅れて朝食の後片付けを終え、午後は読書をしたり、体を慣らすための軽い掃除をしたりして過ごした。
夕方になると、ユージーンが戻ってくる。
扉を開ける音がして、足音が廊下を渡り、顔を見せる前に「ただいま」と小さく低い声が届く。
そんな日々の繰り返しが、いまのリシャにはとても愛おしく、守られているような気持ちになっていた。
今夜も、夕食はふたりで作った。
包丁の音、鍋の湯気、焼き上がる香り──
キッチンに立つユージーンの動きは、無駄がなく丁寧だった。派手な調理ではないが、食材の選び方から火加減まで、一つひとつに慎重で落ち着いた手つきがある。長く一人で暮らしてきた彼なりの、静かな生活の積み重ねがそこに見えた。
リシャは、その背を少し後ろから見つめながら、教わるように手を動かしていた。切り方、煮る順番、味見のタイミング。
時折、ユージーンがそっと手を伸ばして、リシャの指先に触れたり、手元の動きをやんわりと直したりする。
(……なんだか、こうして教えてもらうのって、少し照れくさい)
けれどそのやりとりさえも、いまは特別な時間の一部だった。
焼きあがった温野菜の香り、スープの湯気、柔らかいパンの感触。
テーブルに並んだ料理を前に、ふたりは静かに向かい合って食事をとった。
言葉は多くなかったが、それぞれが自然に相手の皿の減りを見ながら、おかわりをすすめたり、好みを尋ねたりする。そんな小さなやりとりの積み重ねが、食卓に柔らかな温度を灯していた。
食後、リシャが席を立って食器を片付け始めると、ユージーンもすぐに手を伸ばしてくれた。
ふたりで並んで流しに立つ。無言のうちにも、ぴたりと呼吸が合う。
洗い終えた皿を拭き終えると、ユージーンがふとリシャを見た。
視線に気づいて振り返ったそのとき、彼はわずかに言葉を選ぶように、唇を開いた。
「少し……話したいことがある。……お茶でも飲みながら、大丈夫だろうか」
その声音は、どこか迷いを含んでいたけれど、真っ直ぐだった。
リシャは、ふと胸の奥に温かなものが灯るのを感じながら、小さく頷いた。
「……はい」
声に出した自分の返事が、思ったよりもやわらかく響いて、リシャ自身も少し驚いた。
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片付けを終えたあと、リシャは湯気の立つ二人分のお茶を慎重に盆にのせて、ユージーンの待つ居間へと向かう。
ソファ前のテーブルに盆を置くと、ユージーンが少し体を傾けて、リシャに隣を促した。
深く沈むソファに腰を下ろし、お茶の香りに心を落ち着かせながら、隣の気配を待つ。
「外泊届の件だが──定型書式に変更された。
今回のように突然の事態があっても、事前の登録で済むようになった」
ユージーンは、話し始める前に一度、手にしたカップを膝の上で静かに包み込んだ。
「これまでの臨時扱いとは違い、隊の記録上も“家族に準じる扱い”として整理される。……その、いわば“定住先”としての申請になる」
落ち着いた声音だったが、どこか少しだけ言葉を選びながら語っているようにも思えた。
リシャはそっと頷きながら、その意味を咀嚼する。
(……家族に、準じる扱い)
ユージーンは、視線を外すことなく続けようとした。
けれど、次の言葉に差し掛かった瞬間、ほんのわずかに声の温度が変わるのを、リシャは確かに感じ取った。
「いずれ、また任務が激しくなることがあるかもしれない。……今回の件で、痛感したんだ」
ユージーンの手元がわずかに揺れた。しっかりと持たれていたカップの底が、膝上で小さく擦れる。
「きみを、失いたくない。……本当に、心底そう思った」
一言ずつ、喉の奥から絞り出すような声音だった。
眉間にほんのわずかなしわが寄り、視線が少しだけ伏せられる。普段のユージーンではありえないほど、率直で、脆さを孕んだ姿だった。
リシャの胸がきゅっと締めつけられる。
「最初は、きみのことを、ただ任務に秀でた斥候だと思っていた」
ユージーンは、言いながらもわずかに眉を寄せる。
「──それだけで終わらせられるはずだった。けれど」
そこから先の声に、揺らぎのない熱が宿る。
「きみの背を、何度も見た。任務に向かうその姿勢、選択の正しさ、誰よりも前を向いて進もうとする心。
気づけば、目が離せなくなっていた」
淡い蒼鉄色の瞳に映る自分を、リシャはまっすぐ受け止めるしかなかった。
「自分は、何も変わらないはずだった。ただ与えられた立場に応え、結果を出し続けるだけの軍人で……それでいいと思っていた。
でも──きみが隣にいる日々は、それだけではなくなったんだ」
ユージーンの掌が、ゆっくりと膝の上で強く握られる。
「気づけば、食事の時間に意味が生まれていた。
空腹や疲れを言葉にしないきみを、気づけば目で追っていた。
笑ってくれたとき、自分の心が揺れるのを、止められなかった」
目を伏せ、言葉が一拍だけ途切れる。
その静寂が、逆に想いの濃さを物語っていた。
「もう、きみのいない日々には戻れない。
どんな形であっても、きみを失いたくないんだ」
そして、まっすぐに視線が重なる。
「……俺と共に在ってほしい。これからも、ずっと」
まっすぐに、けれど今はどこか、縋るように。
ユージーンは再びリシャを見て、そっと言葉を継いだ。
(……どうして、そんなふうに言ってくれるのだろう)
胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
かけられた言葉のどれもが、心の奥に触れるようで、リシャはただ黙って見つめ返すしかなかった。
そのとき、ユージーンがそっと、彼女の手に触れた。
一瞬だけためらうように指が寄り、けれど次の瞬間には、静かな決意とともにしっかりと包み込まれる。
一度、整えるように静かに息を吐く。
「……この国では、軍属の家族申請に際しては、形式的な文書の提出と、互いの同意が必要だ」
先ほどまでとは打って変わって、理知的な声音で、ユージーンは説明を続けた。
けれど、手だけは離されないままだった。
「貴族のような儀式はないが、共に住まい、互いを第一親等と認め合う意志を示すこと。それが条件になる。
申請が通れば、軍の記録にも正式に“家族”として記載される」
(……それは、わたしとユージーンさんが、“家族”になる、ということ)
言葉ではうまく整理しきれないまま、胸の奥に熱が広がっていく。
静かな安心感と、どこか信じがたいような、くすぐったさが混ざり合う。
ユージーンは続ける。
「加えて──これは必須ではないが、民間でも婚姻や家族登録の制度がある。
軍属以外の者が家族になる場合や、養子縁組、財産や継承の手続きには、そちらの登録も必要になる」
そしてもう一度、リシャの手を軽く握り直しながら、穏やかに言った。
「俺は、心身ともに、きみと家族になりたい。
軍の制度だけではなく、きちんと……すべての意味で、そうなりたいんだ」
まっすぐな目でそう語るユージーンの声は、どこまでも優しく、そして切実だった。
それはただの制度ではなく、彼自身の“生き方”としての願いなのだと、リシャは思った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがふるりと揺れた。
しっかりと包まれた手の温もりが、じんわりと指先から染み込んでくる。
まるで、それだけで心の奥底に触れられたような気がして、呼吸がうまく整わなかった。
リシャは、何かを言わなければと口を開こうとした。
けれど喉がきゅっと詰まり、声にならない。
言葉にしようとして、気づいた。
いざ伝えようとすると、あまりにたくさんの思いが込み上げてきて、
どこからどう話せばいいのか分からなくなってしまうのだ。
自分が、こんなにも誰かに大切に思われていること。
その相手が、ユージーンであること。
それが、うれしくて、苦しくて、どこか夢のようで──
「……」
唇を震わせたまま、うまく言えず、ただじっと見つめ返すことしかできなかった。
それでも、伝えたいという気持ちは溢れていて。
逸らしたくなくて、瞬きをこらえたが、それはすぐに崩れた。
ぽろり、と。
涙が頬を伝い、膝の上に落ちた。
「……ごめんなさい」
ようやく漏れたのは、謝罪の言葉だった。
でもそれは、悲しみや拒絶からではなく、こんなにも温かな思いに、すぐにはうまく返せなかった自分への、悔しさと愛しさが混ざった、精一杯のものだった。
ユージーンは何も言わず、ただ静かにリシャの手を握り直してくれる。
その優しさに、また涙がこぼれた。
「わたし……」
言葉が、喉の奥から少しずつ形を成していく。
まだ震えていて、途切れ途切れで、それでも。
「……前に、ユージーンさんが、ご家族の話をしてくれたとき……いいなって思ったんです。
あんなふうに……想ってくれる誰かがいるということが、とても……あたたかくて、素敵なことだなって」
「ユージーンさんと、いっしょにご飯を食べたり、笑ったり、眠ったりして……。
そうしてるうちに、気がついたら……本当に、ここが、わたしの居場所だって思えるようになっていて」
涙を拭おうとした手を、ユージーンがそっと包み直してくれる。
その温もりに、リシャはふっと息をついた。
「っ、うまく言えなくて、ごめんなさい……。
でも、本当に、ユージーンさんのこと、大好きです。
……ずっと、一緒にいたいって。ユージーンさんと家族になりたいって……思っています」
震えながらもまっすぐな瞳で、そう伝えた。
その言葉はたどたどしくても、真心だけは、何より確かにそこに込めたつもりだった。
リシャの返事に、ユージーンは小さく息を吐き、そして目を細めて微笑んだ。
胸の奥に差し込んでいた緊張が、ほぐれるようにほどけていく。
「……ありがとう、リシャ」
低く、やわらかな声。
その響きに、リシャの胸がまた熱を帯びる。
ユージーンは手をそっと伸ばし、涙の跡をなぞるようにぬぐってくれた。
その指先はどこまでも優しく、愛おしむようで──リシャは目を閉じたまま、そっとその手に頬を寄せた。
まなざしが合う。
何も言わなくても、互いの想いが満ちているのを、ただ感じられた。
気づけば、ユージーンの顔が近づいていた。
ためらいも、焦りも、もうどこにもなかった。
触れる寸前、互いの呼吸が重なり──
やわらかく、静かに、唇が重なった。
ぬくもりと想いが、そっと伝わってくる。
リシャは瞳を閉じたまま、そのすべてを受け止めた。
「……今夜は、きみと、一緒にいたい」
囁くような声が、耳元で静かにこぼれた。
その低く落ち着いた響きは、リシャの耳殻から奥へ、さらにその奥──胸の中心にまで、そっと染み込んでくるようだった。
声にならない吐息がこぼれ、リシャの身体がかすかに震えた。
肩がぴくんと揺れて、鼓動が強くなる。意識が耳に集中してしまって、そこだけ熱をもったような感覚に包まれる。
恥ずかしくて、逃げたくなるほどに甘くて、でも、逃げたくなんてなかった。
リシャは、ほんの少しだけ目を伏せながら、小さく首を縦に振る。
ユージーンが、ゆっくりと立ち上がる。
差し出された大きな手に、リシャがそっと自分の手を重ねると、そのままやさしく引き寄せられる──と思った次の瞬間。
「……えっ」
ふわりと浮く感覚。ユージーンが、そのままリシャの身体を抱き上げていた。
動揺の声を漏らすリシャを、ユージーンはまるごと受け止めたまま、穏やかな表情で見下ろす。
「重く、ないですか……?」
ぽつりとこぼれたその問いに、ユージーンはふっと目元を緩めた。
「まだまだ軽いくらいだ。きみには、これからも、もっと──たくさん美味しいものを食べてもらわないとな」
「えっ……」
「ちゃんと身体に、幸せを、しみこませてほしい」
そう続ける声は、思っていた以上に優しくて、とろけるように甘かった。
リシャの胸の奥がきゅうっと鳴って、熱がこみあげてくる。
そんなふうに言われて、照れずにいられるはずがない。「うう……」と小さく声を上げることしか出来なかった。
ユージーンの胸の中は、くすぐったいほどあたたかくて、恥ずかしいはずなのに心地よくて、リシャは頬を染めながら、そっと顔をうずめた。
ユージーンの歩幅で、ゆっくりと廊下を進んでいく。
寄り添うぬくもりと、歩みの音と、ふたりの影。
その扉の向こうにあるのは、ただ穏やかで、誰にも邪魔されない、ふたりだけの夜だった。




