第十四話:直属斥候は、見守る手と共に帰る場所へ向かう
医務室での療養を終えたリシャが、ユージーンに背を支えられながら扉をくぐって外に出ると、明るい陽射しが頬を照らした。
短く整えられた芝生と石畳が広がる、小さな独立棟。普段なら静けさに包まれているであろうその場所に、すでにロルフが待っていた。
「こちらで出来ることは済ませておきます。何かあればすぐ連絡しますので──ふたりとも、ゆっくり家で休んでください」
変わらぬ穏やかな声だったが、その語尾にはどこか、優しい労いが滲んでいた。
ロルフの背後には、ハールトとレイナの姿もあった。ハールトは大げさに親指を立て、レイナは小さく片目をつぶってみせる。それぞれ言葉にはせずとも、「行ってらっしゃい」の気持ちが伝わってきた。
リシャは小さく頭を下げて返したつもりだったが、心のどこかがむずがゆく、どうにも落ち着かない。
ユージーンが一歩前に出て、ロルフから数枚の書類を受け取った。必要最低限の後始末の書類と、数日分の伝達記録──それ以上のことは、もう任せてもいい、と判断したのだろう。
「感謝する、ギルデン副官」
それだけ告げたあと、ユージーンは何も言わず、そっとリシャの方を見やった。普段より少しだけ落ちた瞼の奥に、疲労の色が濃く滲んでいる。それでも、立ち姿だけは揺るがず、凛としていた。
ロルフとのやりとりが一段落したところで、医務室の扉がもう一度そっと開いた。
そこから現れたのは、白衣の裾を軽く揺らしたマリナだった。
「ちょっと待って! リシャ、これ……」
そう言って、彼女は紙袋をリシャに手渡す。
中には、香草の香りがほのかに漂う包みと、色の違う数種類の小瓶が丁寧に収められていた。見るからに体を労わるための滋養と回復の品々だとわかる。
「一番上のは、温かい水で煮出して。眠る前に飲むと、神経が少し落ち着くはず。
あと、食べられそうなら、このお粥も。味は薄いけど、お腹にはやさしいから」
「……ありがとうございます」
受け取った袋の重みが、やさしく胸に響いた。
マリナはリシャの顔を見て、小さく頷いた後、ちらりと隣に立つユージーンにも目を向ける。
「そちらも、無理はしないで下さいね。しばらくは二人とも、療養優先。絶対ね」
その言葉に、ユージーンはわずかに目を細めて頷く。
「……感謝する、クライン隊員」
リシャの手元にある紙袋へと視線を移し、マリナは冗談めかした口調で付け加える。
「あんまり張り切って介抱しすぎて、逆に倒れないでくださいね、団長さん?」
「…………肝に銘じよう」
あくまで真面目に返されたその言葉に、マリナはふっと微笑み、踵を返した。
白衣の背が医務室の扉に吸い込まれていく。
その背を見送りながら、リシャは小さく息をついた。
ひとの気配とやさしさに、またひとつ、現実に引き戻された気がした。
しばらくして、医務室前の石畳にしなやかな馬の蹄音が響いた。待機していたのは、騎士団本部の上層向けに配備される、装飾の施された一台の馬車だった。光を受けて微かに煌めく黒革の車体、磨かれた手すりと、内装が見えるほど開かれた扉の奥には、居心地の良さそうなクッションが並んでいる。
(……こんな馬車、乗っていいんだろうか……)
そんな声が喉奥に浮かんで、飲み込まれる。
何も言わないまま、ユージーンが差し出した手に導かれ、皆に見送られながらリシャは馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まり、外の光が柔らかく遮られる。わずかに揺れる車体のなか、二人は自然と寄り添い、座席に身を預けた。
ずっと繋いだままの手は、いつもと変わらない温度だった。指先が、そっとリシャの甲をなぞる。その仕草に応えるように、リシャもまた指を絡めた。無言のまま、視線が交わる。見つめ合い、目を伏せ、またそっと触れる。
言葉はいらなかった。
頬を寄せたとき、ユージーンの呼吸が髪をかすめる。そのぬくもりが、静かに心に滲んでいく。
言葉よりも静かな仕草が、心に染みるように重なっていく。
馬車はまっすぐ、ふたりの帰る場所へと向かっていた。
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馬車の扉が静かに閉まり、蹄の音が遠ざかっていく。
リシャは、手を振るようにしてその背を見送った。
風に揺れる馬のたてがみが最後の一瞬まで陽光を反射して、やがて視界から消えていった。
ユージーンが隣に寄り添い、そっとリシャの背に手を添える。
支えられながら段差を越え、玄関の一段を踏みしめるたび、屋外とは違う穏やかな空気が肌に沁みた。
この家に、また帰ってこられた──その事実が、胸の奥で静かにほどけていく。
扉が閉まり、外の音がぴたりと遠のいた瞬間。
ユージーンが、リシャの方へ身体を傾けかけ──けれど、すんでのところで動きを止めた。
彼自身も気づいたのだろう。まだ軍服のまま、埃と血のにおいをわずかに纏った姿であることを。
リシャは、目を伏せて小さく笑った。
自分もまた、万全とは言いがたい状態だ。顔や腕に残る擦過傷のひりつきが、どこか夢の続きのように痛んでいた。
ユージーンは苦笑いを浮かべると、無言のままリシャの手を取った。
その手に引かれ、客間──いまはもう、リシャの部屋となったその場所へとゆっくりと向かう。
支えられながら、ゆっくりとベッドへと腰を下ろす。
その手が背と肩をやさしく導き、布団へと寝かせてくれる頃には、もう身体の力が抜けていた。
柔らかな寝具が背中を受け止め、まるで深く深く包み込まれていくようだった。
そのまま、まぶたが静かに落ちる。
──次に目を開けた時、部屋には静かな光が差していた。
カーテン越しの陽が、床の上にやわらかな模様を描いている。
ぼんやりと床を見ていたその時、扉の方から小さくノックの音がした。
「……どうぞ」
そう返すと、扉がゆっくりと開く。
現れたのは、私服に着替え、髪を下ろした状態のユージーンだった。
肩の力が抜け、整った襟元と、淡く落ち着いた色味の上着。
指揮官としての鋭さは影を潜めていて、それでいて、整った呼吸の下に静かな芯の強さがある。
「昼ご飯、食べられそうか」
ベッドの近くに膝をつきながら、ユージーンがやさしく問いかけた。
リシャは一瞬だけ考えてから、こくんと頷いた。
「……はい、大丈夫です」
それを聞いたユージーンが、ふわりと表情をゆるめる。
そして、さりげなくリシャを抱き上げようと腕を差し伸べ──
「っ、自分で歩けます」
間髪入れずにそう言ったリシャに、ユージーンは明らかに、すこしだけ残念そうな顔をした。
その表情が頭から離れないまま、リシャはふと思い出す。
──目覚めた直後、ベッドのそばで、必死に手を握っていた彼の顔を。
(あんな顔を、私がユージーンさんにさせてしまったんだ……)
胸の奥が苦しくなる。ためらいながら、リシャは声を落とし、ユージーンの肩にそっと手を乗せる。
「……その、やっぱり。お願い、できますか……?」
小さな声でそう言うと、ユージーンの目が驚いたように瞬き──すぐに、やわらかく笑んだ。
次の瞬間には、リシャの身体は大切に抱き上げられていた。
ほんの少し照れながら、でもどこか嬉しそうに見える顔。
その胸元に、そっと身体を預けた。
ダイニングに到着すると、マリナから受け取ったお粥が、すでにきれいに並べられていた。素朴な香りが鼻をくすぐる。薬草の風味がほのかに混ざっていて、それだけで身体がほぐれていくようだった。
椅子に下ろしてもらい、二人で向かい合う。
言葉は少なかったけれど、食卓のあいだに流れる空気は、穏やかであたたかかった。
静かな陽の差す昼下がりに、必要なものが、すべてそこにある気がした。
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それから、幾日かの時が過ぎた。
日中の光が窓辺に差し込む時間も、夜の静けさが家を包む時も──リシャはそのほとんどを、自室のベッドで過ごしていた。
食事の時間だけ、静かに目を覚まし、ユージーンが用意してくれた温かな粥を口に運ぶ。マリナからの薬も忘れずに飲んだ。けれどそれ以外は、身体が求めるままに、眠っていた。
そんな療養のなか、ふとした拍子に、数日前の出来事が胸によみがえってくる。
自力で風呂に入るのもままならなかったあの日、ユージーンがそっと布で身体を拭いてくれたこと。大きな掌で、やさしく、傷を避けながら丁寧に肌をなぞっていく、その仕草に──
あの夜の、少し乱れた呼吸と、触れ合いの記憶が重なってしまい、思わず顔が熱を帯びた。
もちろん、そのことは、まだ言っていない。
あれからというもの、ユージーンは少し……いや、かなり世話を焼くようになった気がする。
食事の温度も薬の時間も、ほんの少しベッドの上で起きたそぶりを見せるだけで、すぐに足音が近づいてきてしまう。
番に対して心配を隠しきれない獣のように──そんな姿が、なんだかくすぐったくて、嬉しくて、けれどやっぱり申し訳ない気持ちにもなる。
あの日、自分が倒れたことで、どれだけ心を乱してしまったのだろう。
そのことを考えるたび、胸の奥が、じくじくと疼いた。
けれどユージーンも、日々のなかで少しずつ疲れを癒しているようだった。
書斎で最低限の書類を処理しながらも、夜になるとリシャの傍で本を開き、静かに寄り添ってくれる。
無理はしていない──そう思えるだけで、少し安心した。
一度だけ、ロルフ副官が差し入れを届けに来てくれたようだった。
リシャが目を覚ましたときにはすでに姿はなかったが、机の上には、滋養の効くスープの瓶と、簡素な紙包みに収められた贈り物があった。
開いてみれば、ハールトとレイナからの、小さな工夫がこらされた包帯留めや、肌にやさしい手拭い──
療養中の気だるさをほんの少し忘れさせてくれるような、あたたかな気遣いを感じられた。
(……みんな、優しいな)
胸の奥が、ふっと緩む。
小さなぬくもりが、静かに心の深いところに灯るのを、リシャはじっと感じていた。




