第十三話:直属斥候は、途切れた時間の先で再び息をする
目蓋の奥に、やわらかな光が差していた。
(……あれ……?)
喉が渇いていた。手足が重くて、うまく動かない。けれど、痛みはない。遠くで響いていたあの喧騒も、もうどこにもなかった。
しばらくして、リシャは、ゆっくりと目を開けた。
そこは医務室だった。
薄いカーテンの向こうから、包帯を巻かれた兵の足音や、衛生兵たちの声が聞こえていた。自分と同じく、戦いの痕を抱えた仲間たちが、何人もここで過ごしているのだとわかる。
(……生きてる……)
じんわりと意識が戻ってきたその時、視界の隅に、見覚えのある黒藍が揺れた。
隣の椅子で、ユージーンがうつむいて眠っていた。
外套は脱がれ、胸元の留め具がいくつか外れた軍服の襟元から、ほんのかすかに血や埃の匂いが混じる。服には小さな汚れが残り、髪も少しだけ乱れていた。ひと目で分かるほどの疲労が、輪郭をやや陰らせている。けれどその背筋は、眠ってなお崩れておらず、どこか張りつめた気配すら漂わせていた。
無骨な外套を脱いだその姿は、いつもよりも近く感じられた。手には、リシャの手が握られていた。ぎゅう、とでも、そっとでもなく、ただそこに在り続けるような、静かな温もりだった。
(……ユージーンさん……)
寝息は深く、疲労が滲んでいる。けれどその手は、まるでリシャの無事を何度も確かめるかのように、しっかりと握られたままだった。
声は出なかった。
ただ、ぼんやりとその姿を見つめていると、静かにカーテンが開いた。
「……リシャ。起きたのね」
現れたのはマリナだった。白衣の胸元には小さな名札がついている。いつもの優しい笑顔に、わずかな安堵の色が浮かんでいた。
「無理に動かなくていいよ。まだ、回復途中なんだから」
リシャは、かすかに目だけを動かして応えた。
マリナはそっとユージーンの肩に布を掛け直し、リシャの額に手を当てて熱を確かめる。
「軽い打撲と、少し出血してたけど、いちばんの原因はスタミナ切れと、極度の神経疲労。……目を開けてくれて、ほんとによかった」
その声に、リシャの胸の奥がじんわりと温まる。
「討伐から、もう三日よ。よく眠ってくれたわね。……みんな、あなたのこと心配してたんだから」
──三日。
自分が、それほど眠っていたという事実に、リシャは小さく息をのんだ。
けれど、マリナの穏やかな表情と、手を握るユージーンの体温が、今はそれを責めることなく、ただ静かに支えてくれていた。
マリナは薬棚の前に少しだけ腰を預けると、やや小さな声で言った。
「──団長、討伐後の制圧と後処理、信じられない速さで終わらせてたんだよ」
リシャはゆっくりと目を向ける。
「負傷者の搬送も、報告書の骨子も、撤収の段取りも。……全部、あなたが目を覚ますより先に片づけてた。周囲に何を言われようと、最後にはあなたのそばを離れなかった。医務室に運ばれたあなたの手を、ずっと握ってたの」
声に、どこかため息のようなやさしさが混じる。
「……この世の終わりみたいな顔してたわ。気丈なあの人が、何度も、あなたの名前を呼んでたの。……あれを見た人には、たぶん、もう隠しきれなかったかもね」
リシャは、何も言えなかった。
胸の奥に、言葉では形にできないなにかが波紋のように広がっていた。
──そのときだった。
指先に、ぴくりと力が加わる。
見上げると、ユージーンが目を覚ましていた。
きつく噛みしめた表情のまま、赤く充血した目でリシャを見つめている。
「……リシャ」
その声は、喉の奥からこぼれるようだった。呼吸がうまく整わないのか、わずかに震えている。
リシャが応える前に、ユージーンはリシャの手を、強く、けれど乱暴でなく握りしめた。
「よかった……」
言葉の途中で喉が詰まり、彼はリシャの手を額に押し当てた。しばらくそのまま、言葉にならないものを押し殺すように、長く、静かに息を吐く。
リシャの視界に、ひとすじの光が映った。ユージーンの目の端に、涙が滲んでいた。
「無事で……ほんとうに、よかった……」
思わずリシャは、握られた手を、そっと握り返した。
その手が伝える温度と震えだけが、どんな言葉よりも真っ直ぐに、彼の想いを物語っていた。
(ああ──この人は、ずっと、私を待っていてくれたんだ……)
かけられた言葉のひとつひとつが、胸の奥に柔らかく染み込んでいく。
意識を手放していたあいだの空白が、静かに満たされていくような感覚だった。
「……私、勝手に……突っ込んでしまって、すみませんでした……」
そう呟くと、ユージーンはかぶりを振った。
「違う。あの場を守れたのは、きみの働きも大きかったからだ。……誰も、きみを責めはしない」
その声には、誰よりも強くリシャを肯定する熱が宿っていた。
ふと、そっと視線を向ければ、いつの間にかマリナの姿はそこになかった。
足音ひとつ立てず、空気を読むように部屋を後にしていたのだろう。
ふたりきりになった静けさの中で、再び、リシャは彼の手を握った。
今度はほんの少し、強く──返されたぬくもりに、胸がいっぱいになるのを感じながら。
ふと、リシャは視線を落とした。
指先に、ユージーンのぬくもりがまだ残っている。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。言葉にできないものが、少しずつ、静かに解けていくようだった。
「……あのあと……どう、なったんですか」
ためらうように問いかけると、ユージーンは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに語り始めた。
「赫焔の逃走を確認したあと、残存魔導反応と灰の群れの追撃に備えて、全隊を再配置した。
負傷者の搬送を優先し、きみを含む戦線離脱者は一時的に後方に収容。あとは、拠点側との連携で魔獣残滓の焼却処理と補給線の再確保。……制圧報告と撤収作業も、ひと通り済ませてある」
淡々と述べられる言葉のひとつひとつに、任務の緊張が滲んでいた。
「……メレル隊員は、火傷は残ってしまうが、命に別状はない。
君に救われたと、繰り返し言っていた。何度も、何度も──ありがとうと」
ユージーンは、どこか誇らしげに、けれど優しくリシャを見つめた。
リシャの胸に、ふわりと安堵が灯る。
──守れた。
その実感が、何よりも心を満たしていく。
ふたりの間に、しばし、静かな余韻が流れた。
言葉はなかったけれど、肌に触れる空気がどこか柔らかく、穏やかだった。
──まるで、世界がこの一瞬だけ、ふたりのために間を取ってくれているようにさえ思えた。
だが──その静けさは、あっけなく破られる。
「アイゼル斥候!!」
「リシャちゃん!!」
バサッ、と医務室のカーテンが豪快に払われた。
鋭い光が差し込むように空気が動き、斥候隊のハールトとレイナが、満面の笑みでずかずかと中に踏み込んできた。
「良かった! 本っ当〜に、良かった!」
「心配したんだからね……っていうか、無事なのはここに来る前に一応は知ってたけど!
でもやっぱり顔見たら安心した!」
二人の声は、やや抑え目にしようという配慮が見え隠れしてはいたが、それでも充分に元気だった。
そしてその背後、わずかに遅れて入ってきたのは副官のロルフ。
彼は息を吐くように肩をすくめると、ひとつ咳払いをして苦笑交じりに言った。
「……すまない、制止はしたんだが」
リシャは思わず、視線をユージーンに向けた。
彼も同様に、目元にうっすらと苦味を含ませた表情を浮かべている。
「あー……」
二人の握られた手に気付き、ハールトが気まずそうに頭をかく。
「その、俺達が二人の関係知ったのって、べつに今のこの光景を見たからとかじゃないっすよ?
あのとき、灰の群れが来て、アイゼル斥候が倒れて……団長が、叫んでたでしょ。リシャ!って。
あんな声、七前に来てから初めて聞いた」
「それに、医務室に運ばれた後もずっとついてたって、みんな言ってた。
食事も睡眠もほとんどとらずに、ずーっと」
レイナも、どこか心底ほっとしたように微笑んでいた。
リシャは、ぽつりと「……そんな、ことが……」と呟くにとどめたが、顔がじんわりと熱くなるのを止められなかった。
ユージーンはといえば、咎めるようでも否定するようでもない、ただ無事を喜ぶような目でリシャを見ている。
それがまた、どうしようもなく恥ずかしい。
「俺達さあ……いい雰囲気だったのに、ぶち壊した?」
「絶対、ぶち壊した……」
「ギルデン副官、これは許されますか?」
「…………いまさら私に許可を取るのか?」
三人は久しぶりの任務外らしい緩んだ表情で、息の合った掛け合いを続けていた。
いつもの、騒がしくてにぎやかな空気。
どこか無防備で、心地よい。
リシャはふと、思った。
──戻ってきたのだ。この場所に。
ユージーンと、皆と、共にある日常に。




