第十二話:騎士団長と直属斥候は、同じ覚悟で刃を振るう
リシャがユージーンの家に泊まったあの日から、二日が経過していた。
その間、第七団では赫焔討伐のための準備が、静かに、だが着実に進められていた。
偵察結果の整理、正面部隊の編成、装備の補填と確認、後方支援との連携──。
隊内には張り詰めた空気が漂っていたが、誰一人として動揺することなく、各々の任務を果たしていた。
リシャたち斥候班もまた、任務直前まで繰り返し情報を精査し、想定される危機への対応を何度も確認してきた。
──それは、これまでのどの任務よりも“重さ”を感じさせるものだった。
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赫焔の巣は、切り立った岩の窪地に口を開けていた。
焦げたような黒褐色の地肌。染みついた硫臭。絶えず吹き上がる熱気に、近づくだけで皮膚がぴりつく。
リシャたち斥候班は、尾根の上からその異様な巣の全容を見下ろしていた。
魔導反応を探知した観測隊の報告どおり、そこにはただならぬ気配が渦巻いている。
──あれが、“赫焔”の本拠か。
ふとユージーンの姿が、視界の端に入った。
黒藍の外套の下、鍛え抜かれた胸板と肩が影を落とし、ただそこにいるだけで空気が引き締まる。
指揮官としての沈黙は重く、だがその眼差しは、すでに次の一手を見据えていた。
静かに構えるその背中には、全隊の命運が託されていることを疑う者はいなかった。
「各隊、配置確認。接近経路、遮蔽確認済み。──斥候班、観測位置に遷移。状況を逐次送れ」
ユージーンの声が、魔導伝声具を通して全隊に響いた。どこまでも静かで明晰な声だった。
「了解。前線部隊、第一波、展開に入る」
正面部隊の指揮官が応じる。
前方、斜面の陰から現れたのは、複数の重装部隊。
盾を構え、耐熱防具をまとった兵たちが、慎重に巣の縁へと迫る。
リシャは岩陰から、息をひそめてそれを見守っていた。
この位置からなら、巣の内部と動線が両方射程に収まる。後方の連絡経路も確保済み。
彼女の背後では、ハールトとカルムもそれぞれ索敵と補佐に徹している。
──あとは、何が起きても即座に伝えるだけだ。
巣の口が、微かに鳴った。いや、風が通ったのだ。
そう思った次の瞬間、轟音とともに赤黒い炎が吹き出した。
「──来ます!」
咄嗟に伏せながら、リシャは叫ぶ。
炎は地を舐めるように広がり、正面の盾兵たちを襲った。
魔導障壁が軋む音が、遠くからも伝わってくる。
「温度、異常上昇……! 装備が……!」
「反応、奥からもう一つ──本体、動き始めた!」
伝声具が一斉に騒がしくなる。
赫焔本体が、巣の奥から姿を現したのだ。
それは、巨岩のような外殻を纏い、全身から炎を立ちのぼらせた魔獣だった。
その体躯は人の倍以上はあり、ただ立っているだけで周囲の空気を歪ませている。
「熱源集中。全員、距離を保て──!」
ユージーンの指示が飛ぶ。だが、正面部隊の数人はすでに地面に膝をついていた。
「っ……あれが、《赫焔》……」
リシャは喉が焼けるのを感じながら、それでも視線を逸らさず巣の縁を凝視していた。
一瞬でも目を離せば、誰かが倒れる。仲間の命が削られる。
(気を抜くな。見落とすな。ここで、私がやるべきことは──)
それは明確だった。観測、報告、伝達、援護。
一瞬たりとも緊張を緩めてはならない。
赫焔が、咆哮した。
空気が震えた。地面が軋んだ。
直後、再び炎が前線を呑み込み──数人の兵士が、崩れるように倒れた。
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赫焔の咆哮の余波が過ぎたあと、地に膝をついたまま立ち上がれない兵の姿が、いくつも見えた。
「盾、二番隊──前列、崩れています! 再編急ぎますが……っ、熱で!」
「魔導障壁、上限に近い……このままじゃ──」
伝声具の向こうで響く声は、焦燥に満ちていた。
どんなに訓練された兵であっても、赫焔の放つ高熱と圧力は異常だ。
想定していた強敵の範疇を、はっきりと超えている。
「中衛、前へ。五度ごとの交代に切り替えろ。各隊、熱源の照準は維持したまま、迂回路を確保」
ユージーンの指示は、いつも通り静かだった。けれどその速さと正確さが、極限の中で部隊を繋ぎ止めていた。
「観測、続けて。斥候班、赫焔の動きに異変があれば即時報告。炎の範囲が広がってきたら──」
「……逃げ場が、なくなる」
リシャはつぶやいた。
視界の端で、カルムがわずかに眉を動かす。だが頷き、何も言わずに再び目を戻した。
「前線の温度上昇が止まりません! 本体、さらに活性化の兆候……!」
「空気、動いてる──! あれは、呼吸……?」
レイナの声が、岩陰から届いた。
彼女の視線の先、赫焔の外殻がわずかに開閉を繰り返しているのが見えた。
(……呼吸のような動き。体内の熱を調整してる?)
まるで、自らの内部で何かを溜め込んでいるような、危うい静けさがあった。
「……なにか来るぞ。注意を──」
警告と同時、赫焔が突如として前肢を踏み込み、全身を低く沈ませる。
次の瞬間、その咆哮とともに、背部から炎の奔流が噴き上がった。
「来るッ──全隊、遮蔽っ!」
ユージーンの指示が空気を裂くよりも早く、地面が揺れ、熱風が走った。
赫焔の口腔から、螺旋を描くような高圧の熱線が解き放たれる。
それは一直線に、中衛の遮蔽ラインを貫いた。
「──っ!」
爆音。岩盤が爆ぜ、あたりにいた複数の兵士が吹き飛ばされる。
悲鳴と警告の声が交錯し、白熱した空気が視界を奪った。
リシャは身を伏せながら、散っていく残火の先に、うずくまる一人の影を捉えた。
「サラさんっ……!」
斥候班の記録係──サラ・メレルが、地面に倒れていた。
駆け寄ろうとする後方支援の手が届くよりも早く、サラは自力で起き上がり、肩を押さえた。
片腕の袖が焦げて裂け、赤く焼けただれた肌がのぞいている。
(……直撃じゃなかったのが、不幸中の幸い……!)
けれどそれでも、痛みを堪える顔は青ざめており、完全な戦闘続行は難しそうだった。
「第五班、交代位置に! 中衛、援護にまわれ!」
ユージーンの声が響く。
続けざまに、正面部隊の一部が赫焔の周囲へ圧力をかけ、動きを封じようとする。
リシャは、吹き飛んだ遮蔽布の残骸を踏み越えながら、ヘルメット越しに汗が滲む額をぬぐった。
(……あの熱。もし今のが範囲技なら、もう一度来たら……)
赫焔の身体が再び低くなる。その動きは鈍いが、まだ戦意を失っていない。
けれど──その巨体には、ひび割れた箇所から幾筋もの蒸気が漏れていた。
「今のが最大なら、あと一発は……」
リシャは指をかすかに震わせながら、銃を構え直す。
──次で終わらせる。
そう判断したのは、ユージーンも同じだった。
「ギルデン、爆撃準備──照準を、頭部中枢に集中!」
「了解!」
地の底から、再び低く軋むような音が聞こえた。
赫焔の最期が、そこへ向かって、静かに動き始めていた。
頭上に、ロルフの手が掲げた合図が振られる。
直後、指示通りに準備された炸裂弾が、赫焔の頭部めがけて一斉に放たれた。
視界を裂く閃光と、耳を突く爆音。
爆撃の爆風に、赫焔の巨体がぐらついた。
「命中……!」
思わず声が漏れた。
が、次の瞬間──赫焔は咆哮を上げ、力を振り絞るように全身をのたうたせた。
(まだ、動けるのか……!?)
だが、その動きはもはや攻撃のそれではなかった。
外殻の一部は剥がれ落ち、露出した内部からは、黒ずんだ蒸気のようなものが漏れ続けている。黒い油のような液体が音を立てながら漏れ出ており、ひび割れた脚は今にも折れそうに震えていた。
──致命傷。
誰が見ても、それが明らかだった。
背を向け、巣穴の奥へと這うように赫焔は逃げ込む。
「追うな──危険だ、現地制圧を優先!」
ユージーンの声が飛ぶ。
隊員たちは即座に追撃の構えを解き、遮蔽を再確認しながら陣形を整え直す。
リシャも、胸の内に残った緊張を呼吸で押し下げるようにしながら、遠ざかる巨体を見送った。
(……逃げた。でも、もう長くは持たないはず)
あの体では、次に姿を見せる時は──骸となっているか、息絶える寸前だろう。
それでも、逃げ“させた”という結果は、必要な選択だった。
──そう思い至った、その刹那だった。
足元から、不自然な揺れが走った。
細かな震えが断続的に続き、やがて、巣の奥深くから聞こえる低い唸りへと変わっていく。
「……地鳴り?」
誰かの呟きと同時に、巣穴の奥、赫焔が消えた闇の裂け目のさらに向こうから──
ぞわ、とした寒気のような気配が押し寄せてきた。
「視界確保! ──何か来る!」
ユージーンがすかさず指示を飛ばす。
斥候たちが周囲の岩陰から身を乗り出し、武器を構える。
その時だった。
裂け目の底、赫焔が潜った穴のさらに奥から──白く濁った影が這い出してきた。
ひとつ。ふたつ。数え切れないほどの“灰色”。
目を凝らすまでもなく、それが生き物だとわかる。
四つ足で這いずる、骸骨のように痩せこけた魔獣たち。
瞳は光を持たず、だが明確にこちらを捉えている。
(──灰の群れ)
リシャの背筋を、冷たいものが走った。
赫焔に集中していた意識が、一気に覆される。
「数、二十……いや、それ以上……!」
岩場の向こうに散っていく気配を感じながら、リシャは無意識に呼吸を抑えていた。
敵は、ただの残党ではない。
赫焔に従っていた、あるいはその熱を餌にしていた魔獣たち──。
「全員、再展開! 迎撃体制──維持線は、ここだ!」
ユージーンの声に、場が一気に引き締まる。
そしてリシャもまた、気を引き直して銃を構えた。
今度は、真正面からの乱戦だ。
“まだ終わっていない”。
むしろ──ここからが、本番だった。
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灰の群れが、音もなく迫ってくる。
その動きは赫焔とは異なる。
爆音も咆哮もなく、ただ地を這うような足音だけが、岩肌を伝って響いてくる。
(速い……!)
最前線にいたハールトが、瞬時に身をひねって回避した。
「数、倍に膨らんでるぞ! 側面からも来る!」
その声に応じ、隊員たちは自然と背中を預け合うように布陣を組み直す。
「各自、斥候を軸に位置を取れ! 乱されるな──!」
ユージーンの指揮が飛ぶたびに、隊列は鋭く整えられていく。
だが、それでも──。
「ギルデン副官、右後方、危険です!」
「──チッ、抜けたか!」
レイナが素早く副官の隙を補い、反撃の合図を送った。
その動きはまさに、必要な場を埋める副斥候の動きだった。
(ここで崩れたら、全滅する)
リシャの額に、汗が滲む。
視界の端で、負傷したサラが叫ぶのを捉えた。
「やめて、来ないで──!」
悲鳴が上がった瞬間、リシャの中で何かが弾けた。
自分の中の“理性”という名の栓が、音を立てて壊れる感覚があった。
視界が、ぐんと狭まる。
けれどその中で、敵の数と位置、動きの軌道がすべて“見える”。
(……間に合う!)
距離。風。敵の気配。すべてが頭の中で連動し、身体は先に動いていた。
土を蹴る音すら残さず、影のように駆け、サラへと迫る魔獣の横腹に──刃が、深々と突き立つ。
断末魔すら出させない一撃だった。
「リシャちゃん……!?」
すぐ背後から、サラのかすれた声が届く。
だがリシャは、振り返らない。返事もない。
──敵がまだいる。
視線の先、もう一体がサラを狙って動きかけていた。
一瞬の判断で、銃へ切り替える。
(あと二歩)
距離が縮まるよりも速く、リシャの魔導銃が閃く。
音もなく発射された弾丸は、魔獣の目の奥に正確に命中し、頭蓋を貫いた。
「…………ッ」
背後のサラは、思わず息を呑んでいた。
守られたはずなのに、どこか──寒気に似たものが背筋を這う。
リシャはまだ、前を見ている。
血のついた刃を持ったまま、ゆっくりと敵のいる方へと身構えるその姿は、まるで味方も視界に入っていないかのようだった。
(……狼のよう)
咄嗟に、サラはそう思ってしまった。
“自分の縄張りを守るために本能で戦っている”、そんな獣の気配。
リシャの横顔に、いつもの穏やかな面影はない。
代わりにそこにあるのは、極限の緊張と、命を護るためだけに研ぎ澄まされた“殺気”。
それが味方に向けられるものでないとわかっていても──
その一瞬、サラはリシャという存在に畏れを抱いた。
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リシャは動きを止めなかった。
その眼に映るのは、敵だけ。
体の奥底から湧き上がる熱と速度。
いつもなら躊躇するような動きすら、今は迷いなくできる。
二段刺突──身を沈め、膝を滑らせながら、喉元へと刃を突き上げる。
すぐさま後方、音もなく忍び寄っていた魔獣の気配に振り返ることなく、銃を半回転させて撃ち抜く。
どの動きにも一切の無駄がなかった。
(足が止まらない。体が、ついてくる……)
身体の痛みも、疲労も、今は感じない。
ただ戦う。目の前の仲間を、守り切る。
その一心で、リシャは灰の群れへ、何度でも飛び込んだ。
一体が飛びかかる前に、足場を跳ねて接近し、頭部を斜めに断つ。
そのまま身を反転させ、次の個体の顎下に魔導銃を押し当てて引き金を引く。
残心のような静けさとともに、硝煙の香りが周囲に漂った。
誰も、声を出せなかった。
ただその姿に、ただその技に、仲間たちは言葉を失っていた。
──何体目を倒したかも、もうわからない。
魔獣の死骸がいくつも転がる中で、血の気配を纏いながら、ただリシャは立っていた。
リシャはなおも刃を振るい続ける。
呼吸は荒く、視界は滲む。だが、動けていた。
(……持久力が、前より──ついている……)
今の生活を続けてきたからだ。温かい食事を摂り、ちゃんと眠る。
それだけのことが、こんなにも身体を変えていたのだと、戦いながら実感していた。
すぐ近くで、仲間たちも血にまみれ、武器を握りしめながら、必死に、喰らいつくように戦っていた。
レイナは冷静に指示を飛ばしながら、倒れた隊員を庇うように魔獣を斬り伏せ、
ハールトも負傷しながらなお、素早い足取りで後衛を援護していた。
カルムは、火傷を負って動けなくなったサラを肩に抱え上げ、安全圏の岩陰へと迅速に移送していた。その表情は淡々としていたが、その手はしっかりとサラを守るように支えていた。
それぞれが、限界の中で、持てる力のすべてを出し切っていた。
リシャの双眸はすでに焦点を失いかけていたが、耳には断末魔と仲間の叫びが混じった戦場の音が確かに残っていた。
(……皆、……皆が戦ってる)
その熱に背を押されるようにして、最後の力を振り絞った。
やがて、敵の気配が──消えた。
あたりに残っていた魔獣はすべて倒され、動ける隊員たちが互いに声を掛け合い、負傷者の確認に入っていた。
傷は深く、火傷も多く、何人かは気を失ったままだ。
それでも──誰一人として、致命的な損傷には至っていない。
赫焔の熱と、灰の群れの急襲。絶望的な連戦にしては、あまりに奇跡的な結果だった。
ユージーンの指揮と、各班の的確な連携。そして何より、リシャをはじめとした隊員たちの決死の働きがあったからこそ──
全員が、命を繋いでいた。
そのときだった。
視界の端に、軍服姿の長身が歩いてくるのが見えた。
ユージーン──。
部隊の全体を見渡し、無事を確認しながら歩を進めるその姿に、リシャはほんのわずかに肩の力を抜いた。
そして、ふいに目が合った。
その瞬間。
張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
(……ユージーン、さん……)
気が緩んだ。その一拍で、膝から崩れた。
「……っ、リシャ──!」
鋭い足音が駆けてくる。
次の瞬間には、もう彼の腕が彼女の身体を受け止めていた。
「大丈夫か、リシャ、リシャ!」
それは命令でも、報告を促す呼びかけでもなかった。
名前を──彼女自身を、ただの一人の人間として呼ぶ声だった。
ユージーンは肩で息をしながら、なおも名を叫び地に崩れたリシャを強く抱きとめる。
今にも自制がほどけそうなほど、焦燥と恐怖、そして祈りが入り混じっていた。
その声だけは、深く、胸の奥まで届いていた。
(……まだ、任務中ですよ……名前、呼んだら……)
意識はもう、遠く。
けれど最後に見た光景が、彼のまなざしであったことが──たまらなく、うれしかった。
そして、リシャの身体は静かに力を失い、ユージーンの腕の中で眠りへと落ちた。




