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第十一話:騎士団長と直属斥候は、束の間の休息に身をゆだねる

寝室のカーテンから差す、やわらかな光でリシャはゆっくりと目を覚ました。


ふと、背中にぬくもりがあることに気付く。それだけで、思わず目を閉じ直してしまう。

数秒前の眠りの中にいた時間が、あまりにもやさしくて。まだ、浸っていたかった。


ユージーンの呼吸が、首のあたりにかすかにかかっている。腕が、リシャの腰のあたりに回されていて、少しだけ、力が込められていた。

──こんなふうに、誰かと目覚める朝があるなんて。そう思うと、胸がふわりと熱くなる。


昨夜のことを思い出すと、顔の奥がじんわりと火照ってくる。

喉の奥が少しだけいがらっぽく、声が出せば掠れそうだった。


静かに息を吸って、身体を横たえたまま自分の胸元を見る。なめらかな肌のあいだに、小さな痕が点々と残っているのが見えた。

リシャの身体には、今回のような小さな痕のほかに、いくつかの傷跡が残っている。

肩口の切創痕、脇腹の縫合の跡に火傷痕──いずれも過去の任務で負ったものだ。

それ以前、スラム暮らしでついた小さな擦過傷の痕も、今もまだ薄く残っている。


(あんなふうに、全部見せたの、はじめてだったな)

それでも──拒まれることはなかった。

目を逸らされることも、触れる手が止まることもなく、すべてを抱きしめるように、ユージーンは受け入れてくれた。


(……全部、愛してもらえた)

そう思うだけで、胸の奥にあたたかいものが差し込んでくる。


そっと抜け出すようにして身体を起こし、薄布を整えながら立ち上がる。

そして──動いた瞬間に、下腹部のあたりにふとした違和感が走った。痛みではない。けれど、確かに残っている。

思わず、ぽつりとこぼれた。


「……名残、まだ……」


──けれど背後から、掠れた低音が返ってきた。

「……そんなこと、聞いたら……離れたくなくなるじゃないか」

驚いて振り向くと、ユージーンが片手で顔を覆っていた。指の隙間から覗く目元は、困ったように笑っている。


(……どうしよう)

思わず布を引き寄せて胸元を隠す。

けれど、その仕草さえも彼の視線を捉えているようで、ますます顔が熱くなる。


口元を手で覆い、彼から視線を逸らす。

「……見ないで、ください」

絞るように出たのは、拗ねとも照れともつかない小さな声だった。


それに応えるように、寝台の上から低く、くぐもった笑い声が返ってくる。喉の奥でくつりと鳴るような、落ち着きのある音。その響きに、リシャの胸が静かに跳ねた。


「きみは、本当に……かわいいな」

ふだんの厳しい指揮官の声とは違う、柔らかさと体温を帯びた声音だった。そう言った彼の顔を見ようと振り返ると、布をかぶったまま上半身を起こしたユージーンと目が合った。


崩した寝癖のまま、濡れたような前髪が額にかかっている。夜の熱がまだほんのりと残るその顔は、寝起き特有のけだるさと、どこかとろけるような甘さを宿していた。


逞しい肩や腕の線は、薄い布越しにもその存在感を隠しきれず──それでも、彼の目はただまっすぐにリシャを見つめていた。


「っ、からかわないでください……」

リシャが小さく抗議すると、彼はわずかに口元をゆるめた。


「からかってなんかない」

言葉とともに伸びてきた腕に、リシャの身体がそっと引き寄せられる。ふわっと持ち上げられるようにして膝の上へ座らされると、その体格差に思わず息を呑んだ。

ぬくもりと、鼓動と、深い呼吸の気配。そのすべてに包まれながら、ふたりの距離は自然と近づいていく。


目が合った。

次の瞬間、何も言葉を交わさずとも、唇がそっと重なった。触れるだけの、けれど心の奥まで届くような、朝の空気に溶け込むような口づけだった。


「……おはよう」

どちらからともなく囁かれたその声に、ふたりはゆるやかに笑い合った。


騎士団長と斥候として過ごしてきた長い日々のなかで、こんな朝が訪れるなんて──リシャは、ユージーンの広い胸に額を預けながら、静かにその現実を噛みしめていた。


---


ここ数日続いた任務は苛烈だった。

交代のきかない指揮官という立場上、ユージーンの疲労はリシャの目から見ても明らかだった。

そのためこの日は、ふたりとも外出を控え、家で静かに過ごすことにした。


湯を交代で浴び、髪を乾かし、身支度を整える。

そして──準備がひと段落したころ。


「……そういえば、新しい服、買ってみたんです」


そう言って、リシャは一歩前に出る。

一昨日、仕事終わりに自分ひとりで選んだ新しい私服。ユージーンに見せるのは初めてだった。


灰がかった青の薄手のシャツは、どこかユージーンの私服を思わせる落ち着いた雰囲気。

白く伸縮性のある布地のパンツは、柔らかさが出てきたリシャの脚にゆるやかにフィットし、動きやすさと女性らしさが絶妙に調和している。


ユージーンが振り返り、目を見開いた。腰から脚にかけてゆるりと視線が動いて、そのまま止まった。何かを言いかけてはのみ込むように、唇がかすかに動いている。

だが次の瞬間、ユージーンは深く、静かに息を吸い込み、まるで覚悟を決めたように姿勢を正した。


「…………きみの魅力を、十二分に引き出している……すごく、似合っているよ」

その声は穏やかだけど、どこか慎重すぎるくらいに丁寧だった。すごく、言葉を選んでいた気がする。


「……ありがとうございます」

リシャは一拍おいて答える。

気になる間はあったものの、褒めてくれたことは確かで。その眼差しに、なにか余計なものを問い返すのは、違うように思えた。


「じゃあ、これで一緒に朝ごはんを作りますね」

そう言って、リシャは自然な笑みを浮かべながらもう一歩、彼のそばへと寄っていく。


朝の光がゆっくりと差し込む食卓の前で、並んで朝食の支度をする。

お互いに道具を手渡しながら交わす小さな言葉と、時折混じる笑い声。

兵舎ではありえなかったその光景に、リシャは心の奥で「幸せだ」と何度も噛みしめていた。


「……これは、ここに入れていいんでしたよね?」

戸棚から取り出した小ぶりのパンを、リシャが慎重に手に取る。


「そう。少し湿気てるから、オーブンで軽く炙ると香ばしくなる。焦がさないように、様子はこまめに見て」

ユージーンが説明しながら、彼女の手元に視線を落とす。

リシャはそっとパンを並べ、火加減を整えるつまみを慎重に回した。


「……このくらい、かな。焦げないように……と」

口の中で小さく確認するように呟きながら、立ったままじっと焼き上がりを見守る姿に、ユージーンの表情がやわらぐ。


「きみは真面目だな。ちゃんと美味しくなるよ」

「それは……ユージーンさんに食べてもらうんですから」

その言葉に一瞬だけ動きが止まり、彼の瞳が、柔らかくリシャを見つめる。


少し後、パンが焼き上がると、今度はリシャが自らお茶の準備に取りかかる。

「ええと……お湯を注いだら、数えて……十まで、でしたよね」

ひとりごとのような声と、そっと揺れるティーポット。その背を見守るユージーンの眼差しは、どこまでも穏やかで、あたたかい。


「葉の香りが立ってきたら、ちょうどいい頃合いだ。……うまくいってるよ」

「ふふ、よかった……次からは、ひとりでちゃんと淹れられそうです」


照れたように振り返ったリシャのやわらかな頬に、朝の光がそっと差し込んでいた。


---


気づけば、室内の空気がますます柔らかくなっていた。

窓辺のレースがゆっくりと揺れ、陽はやや傾きかけている。


「……今日は、このまま、何もしなくていいか」

ソファにもたれたユージーンが、ぼそりと呟いた。低く、いつもよりもゆったりとした声音。

その言葉に、リシャは静かに頷いた。


彼の疲れは明らかだった。

ここ数日の激務の蓄積が、姿勢やまなざしの端々に滲んでいる。


「少し、休みませんか。横に……なりましょう」


声にしてみると、思ったよりも素直な響きになっていて、自分でも驚いた。

ユージーンは、少し目を細めたまま、何も言わずに素直に立ち上がる。

そうしてふたりで、寝室のほうへ歩いた。


ユージーンの寝室に敷かれた柔らかく大きな寝具に並んで横になると、リシャはそっと彼の手を取った。

ごつごつとした節くれのある指。それなのに、触れるたびに安心する、大きな手のひら。

指先を合わせるように並べてみると、第一関節ほどの差があった。


「やっぱり、大きい……」

囁くような声で呟きながら、指を絡めたり、そっと頬を寄せてみたり。

たったそれだけのことが、今のリシャにはたまらなく幸せだった。


「……俺の手で、ずいぶん楽しそうに遊んでいるな」

半分まどろみの中にいるような低い声が、傍らから落ちてくる。

目を閉じたまま、それでも口元には穏やかな笑みが滲んでいた。


「──あっ」

リシャは小さく目を丸くした。

「今……『俺』って言いましたね。前から気になってたんです」


声の調子は静かなまま。けれどその奥には、ずっと胸にしまっていた気付きが、ふわりと浮かんでいた。

あの夜も。買い物のときにも。ふと耳にして驚いてしまって──そのときは、何も言えなかった。


ユージーンは目を開けず、微かに息を吐いた。

「……ああ。家族とか、昔から近しい相手の前では……つい、『俺』って言ってしまっていた」

ぽつり、とこぼすような声。照れとも、反省ともつかない、眠気に揺られた語尾。


「……家族……」

リシャの胸の奥で、その言葉が静かに反響する。


自分には縁遠かった、あたたかい記憶。

けれど今、こうして寄り添える誰かがいて、その人の中に“家族”という言葉が自然に出てきた。

そのことが、なぜだかとても嬉しかった。


(──家族に、なりたいな)

ユージーンの腕に、もう少しだけ身を寄せる。

彼の唇は、何か言いかけたように動いたが、言葉になる前に、ゆっくりと深い呼吸へと変わっていった。


眠ってしまったのだとわかる。けれどリシャは、それでも構わなかった。

その寝息のひとつひとつが、ようやく訪れた安らぎの証に思えてならなかったから。


そっと目を閉じ、リシャもまた呼吸を合わせる。

この日は──このひとときだけは、ただ静かに、彼と過ごすためのものとして。


明日からの任務に向けて、心も身体も、穏やかに整えていくための。

そんな二人だけの休日が、ゆっくりと暮れていく。


---


朝の光が、ユージーン邸の窓辺にやわらかく差し込んでいた。


リシャは身支度の最後に外套の襟元を整え、肩口を軽く叩いて動きやすさを確かめる。

いつも通りの所作──のはずだったが、ブーツの革紐を結ぶ時にかがむ仕草が、どこかぎこちなかった。

きっと、昨日までのぬくもりがまだ身体に残っているからだ。

自覚した瞬間、身体にほんのりと熱が帯びる。


鏡の前で前髪を整えていると、背後に気配がした。

振り返れば、ユージーンが壁に寄りかかるように立ち、腕を組んでリシャを見つめていた。

その視線は変わらず静かで、けれど、どこか名残惜しさの色を含んでいる。


「……もう、出るのか」

低く落ち着いた声が、静かな空気を揺らした。


リシャは軽く頷いた。


「はい。外泊届を出してから、任務の確認にも寄ります。……ユージーンさんも、あとで合流ですよね」

「ああ」


言いながら手袋をはめ直していると、彼がそっと近づき、リシャの手元に手を添えた。

そのまま、やや声を落として問いかける。

「身体……辛くはないか?」

言葉はやさしく、けれど少しだけ──まるで、責任を感じているかのような不安が滲んでいた。


リシャは一瞬、言葉を探すように目を伏せた。

頬がほんのりと赤くなるのを自覚しながら、こくん、と小さくうなずく。

それから、そっと微笑む。


「一日経ってますし……もう、動けます。ちゃんと」

その笑みに、ユージーンの眉がわずかに和らぎ、目元が柔らかくほころんだ。

「そうか」


それだけ告げると、彼は指を絡めた手を、もう一度だけしっかりと握り直し、そっと顔を近づけた。

耳元へと寄せたその瞬間──ユージーンの唇が、リシャの耳の輪郭にふれるかふれないかの軽さで、そっと触れた。

一瞬、くすぐったさにも似た熱が、皮膚を伝って背筋を駆け上がる。


「──じゃあ、今回の任務が終わったら……期待してもいいんだな」

囁くような声。けれど、その響きはリシャの体の芯まで届いた。


「っ……!」

顔が一気に熱を持つ。

けれど怒るでも焦るでもなく、リシャは静かに息を整え、目を合わせて言い返した。

「……無事に帰ってこられたら、ですね」


その一言に、ユージーンはほんの少し目を細め、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「絶対帰るさ。きみに──褒めてもらいたいからな」


その調子に、リシャもつい、口元をほころばせてしまう。

「……気をつけてくださいね。指揮官なんですから」


最後に、ドアノブへと手を伸ばす。

けれど扉を開ける直前で、ふと振り返った。

まっすぐに自分を見つめる視線とぶつかる。


リシャは、少しだけ視線を揺らしながら、それでも真っ直ぐに微笑んだ。


「いってきます。……帰ったらまた、一緒に」

言葉の続きを口にすることはなかった。けれど、約束のように胸の中に響いた。


ユージーンは短く、けれど深くうなずく。

「ああ。……一緒に」

そして、静かに扉が閉まる音が響いた。


外の空気は、軍務の匂いが混じる冷たい風。

リシャはひとつ、小さく息を吐く。


胸の奥に、さっきまでのぬくもりをそっと仕舞い込む。

それは、どこか心を強くしてくれる、大切なものだった。


けれど今は、斥候としての任務がある。

来たるべき敵と、仲間たちを守るための対峙が待っている。


リシャは足元を確かめるように、一歩を踏み出し歩きはじめた。

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