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第十話:騎士団長と直属斥候は、夜の静けさにふたり寄り添う

夕暮れに包まれた街の空気は、どこか柔らかく、歩くたびに足元から静かな余熱が立ちのぼるようだった。

外で夕飯を済ませたあと、二人並んで食材店へ足を延ばす。明日の朝食の材料を選びながら、リシャはふと立ち止まる。


少しだけ首を傾け、視線を横に向けた。

「私、少しずつでも料理ができるようになりたいです。今日、特にそれを痛感しました。……お茶のひとつも淹れられないなんて」

声は小さく、けれど真剣だった。


ユージーンは手にしていた野菜の束をかごへ入れると、ゆっくりとリシャを見た。少しだけ瞬きをして、目元を緩める。

「ありがとう。──キッチンは好きに使ってくれて構わない。帰ったら説明をしよう」

それだけの言葉が、静かに胸をあたためた。


帰宅後、軍の書類のような整然さを感じさせるキッチンに並び立つ。

ユージーンは引き出しをひとつひとつ開けながら、調理道具の配置や使い方、火加減のこと、調味料の並びまで丁寧に説明してくれた。

包丁の置き方、湯沸かし器の使い方、茶葉の保管場所。リシャは真剣な面持ちでそれらを聞きながら、小さくうなずく。


「──それじゃあ、食後のお茶を用意してみようか」

ユージーンの一言に、リシャは小さく息をのむ。そして、頷いた。


手順を教わりながら、慎重に湯を沸かし、茶葉を選び、湯を注ぐ。湯気が立ちのぼるカップの中で、茶葉がふわりと広がっていくのを見て、リシャの表情が少しずつほころんでいく。


手渡したカップの湯気越しに、ユージーンの目が細められる。

リシャがそっと笑うと、彼もまた、口元をわずかに綻ばせた。何気ない作業の中で、リシャの胸には小さな達成感が灯っていた。


『できた』という実感。そしてそれを、一緒に喜んでくれる人がいるという確かさ。

ユージーンのまなざしは静かにあたたかく、まるでそのすべてを包むようだった。

その優しさに触れた瞬間、リシャは自分の中にまたひとつ、確かな居場所が増えたような気がした。


---


湯気の立つカップを手に、ふたり並んで居間のソファに腰を下ろしていた。

食後のくつろいだ時間。テーブルの上にあった資料や報告書はすでに片付けられ、居間はいつもの落ち着いた静けさを取り戻していた。


窓の向こうには夜の気配がすっかり満ち、静まり返った街灯の光が淡く揺れている。カップを手にふたり並んでソファに腰を下ろし、軽やかな会話の輪がふわりと空間を包み込んでいた。


「撤収のとき、セズネ斥候が荷物を全員分まとめて持とうとして引っかかって……結局グリース副斥候に取り上げられていました」

「彼らしいな。君は止めなかったのか?」

「止めたんですけど、『いけるから!大丈夫だから!』って、笑顔で……」

「……想像できるな、それは」


ふ、とユージーンが笑う。彼の声に重なるように、リシャもつられて小さく笑った。

目が合う。ふふっと、どちらからともなく頬を緩めた。

そのときだった。


暖かな灯りの下、何気なく向けられたユージーンの横顔──疲れてはいるけれど、先ほどよりもどこか柔らかくなっているように見えた。その目の下に残る薄い隈が、気のせいか少し薄らいで見えた。

……その証が、ただ嬉しくて。リシャは、無意識のまま指先を伸ばしていた。

静かに、そっと──ユージーンの目の下に、人差し指でちょん、と触れる。


肌にふれたその瞬間、我に返った。

「あ……すみません……っ」

慌てて手を引こうとした、そのとき。

逃げるよりも早く、彼の指がリシャの手首をとらえた。そのまま、引き寄せられる。


一瞬で距離が縮まる。


目の前にあるのは、熱のこもった真剣な眼差し──淡い蒼鉄色の瞳が、確かな熱を宿して揺れていた。

リシャの胸がざわつく。これは、どういう意味なのか──言葉にできない感情が、胸の奥で波を立てる。


「ユージーン、さん……?」

まるで悪いことをしてしまったような、けれど怒られているわけでもない。その距離の近さに、ただ戸惑いが募る。けれど、彼の視線から目を離すことが、どうしてもできなかった。


顔が近づく。

息が触れるほどの距離。それが何を意味するのか、リシャにはまだ分かっていなかった。

彼の瞳がじっとリシャを見つめる。そこに宿るのは、迷いにも似た問いかけの色。

そして、やがて絞り出すように落ちてきた声は、どこまでも掠れていた。


「……きみに……口づけをしても……いいだろうか」

「口づけ……?」


リシャの問いは、純粋な疑問だった。

知らない言葉を問うときと同じ声色で、けれどそのまなざしには、一瞬だけ、かすかな不安がよぎっていた。


ユージーンは目を伏せるように息をつき、そして、リシャの頬に触れていた手をそっと滑らせ、顎に添えた。

わずかに角度を整えるように顔の向きを変えると、指先がゆっくりと唇へと下りていく。

す、と触れたユージーンの指が、リシャの下唇をやわらかくなぞる。

ほんの一瞬、ふに、とした弾力を軽く確かめるように押したあと──


「──嫌だと感じたら、すぐに言ってくれ」

彼は、静かに身体を寄せてきた。

触れたのは、ごく軽く。熱を帯びた唇同士が、ふわりと重なった。


一瞬で、リシャの身体がぴくりとこわばる。

痛みはなかった。ただ、知らなかった感触と、自分の身体のどこかがきゅっと反応する、はじめての刺激だった。


吐息。ぬるくてやわらかいものが、そこに確かに触れていた。

目を見開いたまま、リシャはユージーンの姿を見つめていた。

彼の瞳は閉じられていたけれど、まなざしの奥にあった熱が、まるで残像のように胸に焼きついている。


ユージーンがそっと顔を引き、リシャを覗き込む。心配そうなそのまなざしに気づいて、リシャはようやく瞬きをした。

「……すごい、です」

掠れた声が、唇から零れる。潤んだ瞳の奥には、混乱と驚き、そして──名づけられない感情が静かに波打っていた。


そのまま、リシャはふらりと視線を落とし、そっと自分の唇に指を当てた。触れたばかりの場所に、ぬくもりがほんのり残っている。

目元はとろりと潤み、頬は上気し、どこか夢見心地のまま──「はあ……」と小さく、うっとりとした吐息を漏らした。

無防備すぎる仕草に、ユージーンの喉がごくりと鳴る。けれどリシャ本人は、その熱に気づいている様子もなく、ただ瞳だけをまっすぐ彼に向けて問うた。


「ユージーンさん……今のは、恋人同士がする行為、ですか?」

その一言に、ユージーンの眉がかすかに揺れる。彼のまなざしがぐっと深くなり、ほんの一拍だけ、呼吸が止まる。


「……ああ」

声は低く、抑えていたはずの熱を滲ませていた。


すると──リシャはふいに、すっと身体を寄せた。肩に、胸元に、そっと触れる距離まで。

「……もっと、したい、です」

囁くような声だった。けれどそれは、たしかな願いとして届いていた。

ユージーンの目が見開かれる。そして、ゆっくりと息を吸い込んだあと、もう一度その顔を近づける。


こんどは、先ほどよりも深く。触れるだけではない、じっくりと確かめるような口づけだった。リシャの背に手を添えながら、唇を重ねる。

彼女の吐息が震えるたびに、ユージーンの腕にも熱がこもっていく。

ゆっくりと、けれど確実に。ふたりのあいだに流れる距離は、さっきよりも少しだけ、溶け合っていた。


リシャの小さな手が、無意識のまま、ユージーンの服の裾をそっと握る。その指先には、ためらいと、それ以上の熱がこもっていた。


(もっと、近くに──)

そう感じたのは、どちらが先だったのか。


ユージーンは、そっと彼女を抱き寄せる。リシャは一瞬だけ目を見開いたが、抵抗することなく、静かに彼の胸元に顔を寄せた。鼓動が聞こえる距離で、ふたりのぬくもりが重なっていく。


「……リシャ」

名を呼ぶ声は、いつもよりも低く、とろけるような熱を持っていた。

リシャはゆっくりと顔を上げる。その目に映っていたのは、ただ──これから起こることへの期待だった。


やがて、ユージーンが静かに立ち上がり、リシャの手を引く。

躊躇うように見えた彼女も、そっと足を揃えながらついていく。

扉が開き、灯りが満ちる。扉の奥に広がっていたのは、以前そっと覗いたことのある──あの静かな寝室だった。

丁寧に整えられた淡い色の大きな寝具、そして微かに漂う、ユージーンの香り。


──カチリと音を立てて、扉が閉じられた。


夜の静けさが、ふたりの呼吸に溶けていく。

あたたかな灯の下で、言葉よりも深く、互いを確かめ合うように。静かで、やわらかな夜が、そっとふたりを包んでいた。

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