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第九話:直属斥候は、騎士団長の無理を見過ごせない

二度目の斥候任務を終えて数日が経ち、リシャは指揮棟の執務室へ戻ってきた。

外套を脱ぎ、いつもの席に腰を下ろす。そこは、報告書をまとめ、地図を確認し、声を交わす者たちの気配が交錯する、日常の場所だった。


──けれど、今日は空白がある。

視線を向けた先に、ユージーンの姿はなかった。


あの時、任務終わりに話をしたあと。あれから顔を見ていない。

考えてはいけない、と心のどこかで制しながらも、やはり意識の隅で名を探してしまう。


わかっている。

彼は今、この任務全体の総指揮を担っている。複数班にまたがる作戦調整、兵站の再整備、そして王都からの書類対応──ただでさえ繁忙を極めるその立場に、さらに膨大な仕事がのしかかっていることくらい、直属の斥候である自分にはわかりすぎるほどわかっていた。


寂しがっている場合じゃない。

彼が前を向いているなら、自分も、同じ方向を見なければ。


背筋を正し、机の上の書類に手を伸ばす。疲れはあるはずなのに、胸の奥に灯った熱が、手の動きを止めさせない。

自分にできる限りの働きを。仲間を支え、彼の足を引っ張らないように。

むしろ──その背を、支えられるように。


(……明日は、週末)


たった一行の予定が、心にそっと沁みた。

また、あの家で会える。

穏やかな灯りの下で、肩の力を抜いて笑う顔が見られる。

そのひとときを思い浮かべただけで、胸の奥がやわらかくあたたまっていくのを感じる。


リシャは目を伏せ、深く呼吸を整えた。

もう少しだけ、集中しよう。あとひと仕事終わらせたら、彼のもとへ向かえる自分でいたい──そう思った。


---


週末の陽は、まだ頭上には昇りきっていなかったが、街の石畳には穏やかな光が差していた。

十一時を少し回った頃、リシャは、ユージーン邸の門前に立っていた。


手には、二人分の昼食。焼き立てのパンに具材を挟んだものと、彩りの良いサラダ、小さな副菜。朝方、街の小さな食材屋で時間をかけて選んだものだった。

今日、ユージーンがここにいるかは分からない。それでも、もし会えたらと思って、自然と足が向いていた。


身につけているのは、先日ふたりで買いに行ったワンピース──淡い色味の、少しだけ揺れる裾の服。

もう一着、昨晩ひとりで買いに行った上下の私服は、小さな布袋に畳んで携えている。

上は、灰がかった青の薄手シャツ。どこかユージーンの私服を思わせる、落ち着いた雰囲気の色と形。

下は、白色の伸縮性のある布地のタイトなパンツ。軍服よりも柔らかく、フィット感があって履きやすい。

足元はいつもの軍用のショートブーツ。着慣れたそれだけが、どこか安心感をくれた。


扉の脇にある小さな呼び鈴をそっと鳴らした。だが応答はない。


(……いないのかな)

小さく呟いてから、ポケットに手を入れた。

合鍵を取り出す。差し込んで、ゆっくりと回すと、かすかな金属音とともにドアが開いた。


「……お邪魔、します……」

呼びかける声も控えめに、玄関を一歩ずつ進む。すると、足元に見覚えのある大きな軍靴が並んでいるのが見えた。


「……ユージーンさん?」

中にいる。そう思っただけで、胸の奥が期待で満ちていく。


そっとドアを閉め、居間へと足を進めると──そこには、静かにソファにもたれかかるユージーンの姿があった。

机の上には書類が無造作に広がっている。指の間にはまだ紙が挟まれていたが、寝間着を着た彼の身体はすっかり重力に委ねられ、深い眠りに落ちているようだった。


(寝てる……)

思わず立ち止まり、そっと息を呑む。


濡れてはいないはずの前髪が、あの日と同じように、額の上へと柔らかく垂れていた。

いつもは後ろに撫でつけられている髪が、無造作に前へ流れ、わずかに癖の残る毛先が頬の横で揺れている。

整った顔立ちに、いつもとは違うやわらかさが加わっていて──見てはいけないような、けれど目を離せないような、不思議な気持ちになった。


手に持ったままの包みをテーブルの隅に置く。

そして、彼の手から滑り落ちそうになっていた一枚の紙に手を伸ばした、そのとき──


「……リシャ……?」

低く、掠れた声。ユージーンのまぶたが、かすかに揺れて持ち上がる。


まるで夢の続きを見ているかのように、彼の目がゆっくりと開かれる。焦点の定まらない視線がリシャのほうを向き──そのまま、しばらく動きを止めた。

まっすぐ見つめられていることに気づいたリシャは、咄嗟に身をすくめそうになった。けれど、その直後。


「……っ!」

ユージーンの目が、はっと見開かれた。

跳ねるように身を起こし、壁掛けの時計へと視線を投げる。次いで、額のあたりを押さえながら、ひとつ深いため息をついた。


「……寝てしまったのか……」

呟きは、ごく低い声だった。

自嘲するように小さく肩を落とし、それからようやくリシャのほうへ向き直る。


「すまない、せっかく来てくれたのに……こんな格好で……

昨晩、風呂のあとに少しだけ仕事をしようと思っていたんだが……そのまま眠ってしまったようだ」

そう言った彼の表情には、照れくささと少しの後悔がにじんでいた。

目の下にはうっすらと隈が見え、輪郭全体がどこか落ちくぼんでいるように見える。無理をしていたのだと、リシャにもすぐにわかった。


すぐに何か温かい飲み物でも出せたら──リシャはそう思って、自分がまだこの家で料理をしたことすらないことを思い出す。調理道具の場所すら、はっきりとは知らない。ささやかなことすらできない自分が、少しもどかしかった。


「……このまま無理すると、倒れてしまいます。お昼、二人分買ってきたので……食べませんか?」

そう言いながら、リシャは持参した布包みをそっと差し出した。中にはサンドイッチとサラダ、それに副菜を詰めた小さなパックが、手提げ袋の中で揺れている。


「午後から、仕事のことも……できることがあれば、なんでもやります。もちろん、権限とかの関係もあるので、できる範囲にはなりますが……」

思わず早口になってしまった言葉の終わりに、ユージーンがまた、ふっと息を吐くように笑った。


「ありがとう。……それでは、いただくとするかな」

「はい。来る途中で買ったんです。美味しそうだなと思って」


ダイニングへ移動し、紙の包みをほどくと、野菜の彩りが鮮やかなサンドイッチや、ハーブの香りがほんのり漂う副菜が顔を出した。リシャはひとつずつ容器を開けながら、そっと確認するように言った。


「ユージーンさんの好きそうなものを、選んだつもりですが……今、食べられそうですか?」

「ああ、どれも好物ばかりだ。……ありがとう」

それを聞いて、リシャの胸の奥にほっと温かいものが満ちていく。

何も作れなくても、今の自分にできることを、ほんの少しでも喜んでもらえた──それだけで、どこか報われたような気がした。


---


昼食を終え、容器を洗い終えたあとの静けさのなか。ふとユージーンが手を止め、リシャに目を向けた。


「今日は休日だ。きみまで無理をする必要はないんだが……」

遠慮がちな、申し訳なさそうな声だった。けれど、その優しさに、リシャは首を横に振った。

「ユージーンさんが、そんなに無理をしているのに……私だけ休むなんて、できません」

少し強い調子になったのは、気持ちがこみ上げたせいだった。真っ直ぐに見返しながら、リシャは続ける。


「休んでほしいんです。ユージーンさんに。あなたは指揮官なんですから……」

その言葉に、ユージーンのまなざしが静かに揺れた。

「疲れが取れてなかったら……途中で仮眠をとってもいいんですからね」

と重ねるリシャの声には、滲んだ切実さがあった。


──つらそうな顔を、これ以上見たくない。

無理して微笑む人を、そばに置いたまま見過ごすような自分にはなりたくない。

リシャの胸には、そんな真っすぐな思いだけが満ちていた。


ユージーンは短く息をつき、目を伏せた。

「……わかった」

その一言とともに、テーブルの上に置かれていた書類の一部がまとめられていく。


任務報告書の仕分けと、外部との書簡の要点整理。部隊内記録の整理と、翌週提出予定の簡易見積もりの下書き──

いずれも権限的にリシャでも対応できるものだけを選んで、ユージーンが半日分ほどの作業を渡してくれる。


「ありがとう、本当に助かっている」


ユージーンの声にリシャは深く頷くと、そのまま迷いなく作業に取りかかった。

最初に全体の資料配置を確認し、効率の良い順番を頭の中で組み直す。

それからはひたすら、静かに、速く、正確に。

要点を押さえた簡潔なメモ、分類しやすいよう丁寧にまとめた報告書──

ユージーンの執務室で見てきたやり方を思い出しながら、リシャは予定の三分の二の時間で全てをこなしてみせた。


夕方が近づくころ、片付けに入ろうとしたとき。資料を束ねていたユージーンがふと、ぽつりとこぼす。


「……きみは、すごいな……」

顔を上げると、ユージーンの瞳には淡い驚きと、静かな感嘆が浮かんでいた。

リシャは、ほんの少しだけはにかみながら、でもとびきりの笑顔を返す。


「ユージーンさんの役に立てたなら、本当に……嬉しいです」

心の底からそう思った。今日の自分に、できるかぎりのことを尽くせた。それが、何より嬉しい。


「ユージーンさんも、お疲れ様です。このあとは、ゆっくり休みましょうね」

そう言いながら、リシャはそっと両手を前に差し出した。ユージーンに休んでほしくて、自然と浮かんだ仕草だった。

ユージーンが一瞬だけ目を見開いた後──ふわりと、彼の腕がリシャを包み込む。


「……本当に……ありがとう……」

頭上から、疲れを溶かすような静かな声が降ってきた。

抱きしめられたリシャは、彼の体温とともに、その言葉のひとつひとつを胸に深く刻みつけた。

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